中宮ですらなかった吉田羊さん演じる詮子。しかし天皇との間に皇子が産まれ、藤原兼家流は権力を…複雑すぎる『光る君へ』前後の天皇と藤原氏の関係を日本史学者が整理【2024年上半期BEST】

(写真提供:Photo AC)

2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年01月16日)
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大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。いよいよ2024年1月7日から放送が始まりました。しかし「藤原の名前多すぎ!」などと、さっそくネット上にはその複雑な人間関係についての感想があがっているようです。そこで2回にわたり、日本史学者の榎村寛之さんに当時の天皇と藤原氏の”複雑すぎる”関係について整理してもらいました。

【図】『光る君へ』で押さえておきたい天皇の系図

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左大臣源高明の出世

前編でも触れたが、冷泉天皇(憲平《のりひら》親王)と『光る君へ』に登場中の円融天皇(即位前は守平親王。演:坂東巳之助さん)の間には、為平(ためひら)親王がいた。

3人の母は藤原氏直系の北家右大臣(ほっけうだいじん)藤原師輔の娘、中宮(ちゅうぐう)藤原安子(やすこ)である。

その為平親王は、村上天皇在位時代に左大臣源高明(さだいじんみなもとのたかあきら。村上天皇の弟)の娘(名不詳)を妻にしていた。

この娘の母、つまり高明の正妻は藤原師輔の娘なので、高明は藤原摂関家とも深く結びついており、為平親王は村上天皇の皇子で左大臣高明の娘婿であるとともに、師輔の孫の夫で、そして中宮安子の子だから師輔の実の孫である。

高明が師輔の娘婿になったのは、出来がいいが母が嵯峨源氏でバックが弱く、親王にならずに臣籍降下(しんせきこうか)して源氏とならざるを得なかった高明を、摂関家に補佐させようとした、村上天皇と藤原師輔、そして師輔の娘の中宮安子の合意があってのことだろう。

そのため高明はトントン拍子に出世して、康保4年(967)には左大臣となった。源氏では嵯峨源氏の源融(みなもとのとおる)が没して以来約70年ぶりのことである。その意味では村上天皇の意図は達成されたことになる。

安和の変

しかし摂関家にとって、高明が為平の義父になったのは想定外だったと思われる。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

高明はこの時代に発達した儀式作法、のちに有職故実(ゆうそくこじつ)といわれる高級貴族なら身につけなければならない情報について『西宮記(せいきゅうき)』という本を著すほどに精通していた。

年中行事書はこの時代に始まる儀式マニュアルの文献、いわば虎の巻であり、高明の岳父藤原師輔の著した『九条年中行事』とその兄の関白藤原実頼の『小野宮年中行事』に始まる。その内容は九条流、小野宮流といわれるように、その子孫たちがいわば秘伝として継承していた。そして高明は、師輔の婿なので九条流を学べる立場で、しかも天皇家の秘伝も知る、最も物知りの貴族になれた。

そしてこの頃には、村上天皇も中宮安子も師輔もこの世にはいなかった。そして「賢い高明様」が師輔の子供たち、摂関家の次世代、さらに藤原氏の氏長者だった関白実頼にも共通の脅威となったのである。

康保4年(967)に冷泉天皇の皇太弟となったのは、わずか9歳の同母弟守平親王(円融天皇)だった。

そして高明は安和2年(969)に、為平親王を天皇に擁立する陰謀の嫌疑をかけられて大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、出家に追い込まれる。同年に冷泉天皇が譲位して、守平親王(円融天皇)が即位する。

この「安和の変」は、醍醐源氏の王権介入を嫌った人々(摂関家すべてかどうかには議論がある)による排斥事件である。しかし円融天皇は即位段階で11歳、当然妻も子もいない。円融に子供が産まれたらどうするかという問題は先送りにされたことになる。

一条天皇即位で確立した藤原兼家流の権力

円融天皇の東宮に甥の師貞(もろさだ)親王(のちの花山《かざん》天皇。演:幼少期は伊藤駿太さん。成長後は本郷奏多さん)が立てられたのは、こういう事情がある。

円融は嫡系の天皇になることを期待された東宮の成長待ちのための、いわば中継ぎの天皇だったが、15年間と意外に長く在位した。

この間で予想外だったのは、摂政藤原伊尹が49歳で早世してしまったことである。これによって師貞親王は強力なバックがないままに即位せざるを得なくなった。

一方、円融天皇には中継ぎイメージのためか、後宮は弱小で皇子も懐仁親王(一条天皇)1人しかいなかった。しかしその皇子の母は兼家(かねいえ。演:段田安則さん)の娘、藤原詮子(あきこ。演:吉田羊さん)だったのである。

このあたりの経緯はかなり複雑なのだが、ごく単純化すると、冷泉系は実質的に嫡男の家で、摂関家長男の伊尹の系統が押していて、円融系は兼家の系統が押していた。

しかし伊尹を失った冷泉系は兼家の一族に圧迫されて衰退し、頼みの花山天皇も兼家にはめられて早期退位して、懐仁親王がわずか7歳で即位する。

このことにより、最高権力者の兼家が円融系の天皇を抱き込むことに成功した。そして中宮ですらなかった藤原詮子は、一条天皇の母として皇太后になり、弟道長の権力の源泉となるのである。

マイナーな存在になっていった冷泉系皇族だが

他方、兼家の兄の兼通は関白だったが天皇の外戚になれず、兼家との確執もあったため、その子孫はいわば中間勢力となり、官位は高いが摂関になれないまま弱体化していく(兼通の長男、藤原顕光は道長より年長だったが、常に頭を押さえられ続け、無能呼ばわりされている)。

そして兼家は冷泉天皇にも娘の藤原超子(とおこ)を容れて居貞親王(三条天皇)を儲け、両統を膝下に置くことにも成功した。

居貞親王は冷泉天皇が退位してからの子なので、厳密には天皇の子ではない。そして兼家流と一条天皇の連携により、冷泉系皇族はいささかマイナーな存在になっていた。しかし兼家や、当然その子の道隆(演:井浦新)・道兼(演:玉置玲央)、道長も、政治的には弱体化したものの、正統と見られている冷泉系を無視することはできなかった。

イレギュラーに頼った道長政権のねじれ

おそらくこの時代には、じつは村上天皇の嫡男の系統ではない円融天皇・一条天皇父子こそが「ねじれ」だという意識があった。

そして一条天皇が即位した時点で、冷泉天皇・円融天皇の皇子は居貞親王1人しかいなかった。

つまり正統な天皇として期待されていたのは東宮居貞親王だったのである。そのためここで、天皇より年上の皇太従兄、というねじれができてしまった。

そして一条天皇には、道長の娘、中宮彰子(あきこ)が産んだ敦成親王(後一条天皇)という皇子が産まれてしまった。

このねじれは道長政権にも大きな悩みの種となるのである。

参考:沢田和久「冷泉朝・円融朝初期政治史の一考察」初出:『北大史学』55号、2015年/所収:倉本一宏 編『王朝時代の実像1 王朝再読』臨川書店、2021年)

前編はこちら

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