『光る君へ』12歳で入内後、出産まで実に10年を要した道長の娘「いけにえの姫」彰子。苦しんだであろう日々が『源氏物語』にも影響を…その生涯について

(写真提供:Photo AC)

大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回「道長の娘・彰子の生涯」について、『謎の平安前期』の著者で日本史学者の榎村寛之さんに解説をしてもらいました。

次回の『光る君へ』。石山寺でばったり出会ったまひろと道長。思い出話に花を咲かせるうちにふたりは…

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藤原彰子の入内

現在、お休み期間中の『光る君へ』。

6月30日放送回の「いけにえの姫」では、まひろが佐々木蔵之介さん演じる夫・宣孝とすれ違っていくなかで、道長と再会してしまいました。やきもきしながら次回放送を待っている方も多いことでしょう。

一方でその道長は、安倍晴明の助言に従い、嫌々ながらその娘・彰子を一条天皇に入内させることを決意しました。

史実から言うと、その彰子は入内から10年を経て、一条天皇との間に初めての子〈後の後一条天皇〉をもうけることになります。

入内から10年とはかなり長い期間に思われますが、その間、彰子と一条天皇の結婚生活はいかなるものだったのでしょうか。

今回はそれについて記したいと思います。

いきなり中宮になった彰子

『光る君へ」でも語られていたように、道長の長女・彰子は数え年12歳で結婚しました。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

一条天皇とは8歳差で、今で言えば、大学生と小学生くらいの結婚と考えていいでしょう。

普通、貴族の娘が入内をすると、まず女御からスタートするのですが、彼女は天皇の正妻である中宮定子を皇后に押し上げて、わずか3ヵ月で中宮になりました。

女御は四位程度の位階を持ち、いわば女官の身分なのですが、皇后は天皇と同等の、臣下を超えた立場です。

そしてもともと、中宮と皇后は同じ意味ですが、それを別のものと考え、中宮と皇后を同時に置いたのは、定子の父・藤原道隆でした。

それは皇后という身分の濫用とも言え、多くの反発を招きました。

一条天皇の後宮の状況

しかしこの時に皇后になったのは、円融上皇の中宮だった藤原遵子(公任の姉)です。

道長はこの前例をさらに乱用し、一人の天皇に皇后と中宮の2人の「正妻」を置くという強引な策に出たわけです。

じつはこの時、一条天皇の後宮はかなり賑わっていました。

まず寵愛が厚いのは定子とその同母妹の御匣殿ですが、当時すでに、この2人のバックの中関白家は衰退しています。

そのほかに三人の女御、藤原公季の娘・義子(天皇より6歳年上)、顕光の娘・元子(1歳年上)、道兼の娘・尊子(4歳年下)がいて、いつ男子が産まれてもおかしくない状況ではありました。

しかしながら、まだ少女の彰子が正妻に入った以上、これ以上の女御を入れる事は道長に対するはばかりになる。そして彰子が入内した年には定子が、2年後に御匣殿が亡くなってしまいました。

彰子の妊娠・出産を待った道長

つまりこれ以後、一条の後宮に娘をいれたいと考えた有力貴族がいても、中宮彰子が立ちふさがるので、それはできない。あとは彰子の妊娠・出産待ちでした。

しかし、先述した通りで、彼女が後の後一条天皇を出産したのは入内から10年後となります。

おそらく入内後数年で、彰子自身は子を産める状況になっていたと思われますが、様々な事情でなかなかできなかったのでしょう。

そこで道長が注目したであろう存在が、定子の遺児の敦康親王と、道兼の娘の女御尊子です。

この二人の共通点は道長に近い親戚で、しかも後見がいない、つまり道長庇護下の立場でした。

敦康は実質的に彰子が育てており、彰子に子供ができない時には養子になる可能性がありました。またもし尊子が男子を産めば、やはり同様のことになった可能性があります。

道長はこのように幾重にも保険をかけながら、彰子の妊娠を待っていたのです。

彰子の気持ちと関わるかもしれない『源氏物語』のエピソード

紫式部が著した『源氏物語』には、この間の彰子の気持ちと関わるかもしれないエピソードがいくつも見られます。

まず、『若紫』での光源氏と若紫の出会い。

大学生と小学生くらいの二人の出会いは、入内した頃の一条と彰子に重なります。

そして幼い姫が入内して翌年妊娠する話も『源氏物語』に出てきます。

光源氏と明石の上の娘で、紫の上の養女となった明石の姫君です。

彼女は11歳で裳着(成人式)を行い、東宮(源氏の異母兄朱雀院の子)に入内。13歳で妊娠し、男子を出産し、東宮の即位により中宮となりました。

女院「上東門院」として宮廷を支え続けて

これらの章段がいつ書かれ、彰子がいつ読んだのかはよくわかっていません。

しかし「若紫」は『源氏物語』でもかなり早い時期に書かれたものであり、あるいは道長はこの光源氏と若紫の物語を読み、一条天皇と彰子にも見せてやろうと思ったのかもしれません。

おそらく父や周囲からかけ続けられたであろう、苦しいプレッシャーをはねのけ、大変な難産を超えて彰子は後一条天皇を産みました。

紫式部は冷静な筆致でその様子を記し、世界最古級とも言える、女性による出産記録文献を残しました。

『源氏物語』の明石の姫君の物語は、彰子に皇后の自覚と妊娠を促し、『紫式部日記』は、その結果を道長に報告する、紫式部の一対の報告書と言えるのかもしれません。

そして彰子は、一条天皇を失ってからも、実に60年余りにわたり、道長や源倫子の権威をも越え、宮廷を支え続けた女院「上東門院」となるのです。

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