『虎に翼』寅子モデル・嘉子は34歳で女性裁判官に。男女の真の平等を実現するために<職場で女性は甘えない><男性が女性を甘やかさない>ことが大切と考えていたワケ
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【書影】嘉子が生涯を賭して成し遂げたかったこととは…神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』
裁判官としての嘉子の姿勢
1949(昭和24)年8月、34歳の嘉子は、東京地方裁判所民事部の判事補に任用されました。
同年に判事補、検事に任官されていた石渡満子・門上千恵子に続き(2人は、戦後に司法研修所で男性と一緒に修習を受けた、最初の女性司法修習生でした)、嘉子も裁判官としての人生を歩み始めたのです。
嘉子が所属したのは東京地方裁判所民事第六部で、当時の裁判長は近藤完爾という人物でした。
嘉子は女性裁判官として注目を集める存在でしたが、裁判官としての法廷経験は全くなかったので、最高裁判所事務総局民事局長だった関根小郷の意向もあって、近藤はできる限り合議事件を増やして、早く嘉子が裁判事務に慣れるようにと働きかけました。
現在の地方裁判所での民事訴訟は、1人の裁判官で審理する単独事件が多いのですが、論点の複雑な事件や規模の大きな事件などは、3人の裁判官の合議で審理する合議事件になります。
単独事件にするか合議事件にするかは裁判所や裁判官が判断しますが、当事者から希望が出される場合もあります。この当時の東京地方裁判所民事部には、合議事件の多い部と単独事件の多い部との区別が設けられていたようです。
公平な視点を持った先輩裁判官
ただし、近藤はあくまでも経験の少ない裁判官への配慮としてこのように考えただけであって、嘉子が女性裁判官だからというような理由で、気を遣っていたわけではありませんでした。
近藤は、最初に嘉子に会った際に、「あなたが女であるからといって特別扱いはしませんよ」と言い、その言葉は嘉子の心にいつまでも残り続けました。
嘉子は後に、近藤から受けた指導が「私の裁判官としての生き方を決定した」と振り返っていますが、近藤のような公平な視点を持った先輩裁判官たちとの出会いが、嘉子の裁判官人生を満たされたものにしていきます。
実際のところ、嘉子は近藤のもとで明るくのびのびと仕事に打ち込み、経験を積んでいくことや、新しい知識を吸収することにも熱心でした。
近藤から見ても、経験の少なさに対する配慮などは必要のない様子であったようです。
「人間」として見られるように
嘉子は合議の場においても物怖じせず自由に発言し、とはいえ言いたい放題なわけでは全くなく、他の裁判官の意見にもいつも丁寧に耳を傾ける平衡感覚がありました。
柔軟な思考の持ち主であった嘉子がいるだけで、裁判官室の雰囲気は明るくなり、誰もが思ったことを言いやすい空気に包まれたそうです。
嘉子は、自身の考える男女の真の平等を実現するためには、職場において女性は甘えないこと、そして男性が女性を甘やかさないことが大切だと考えていました。
人間として全力を尽くすときには、男性も女性もないのであって、むしろ「女性だから」という甘えの方が許せないものだという気持ちが、嘉子の中にはありました。
この頃の裁判所では、数少ない女性裁判官に対して、男性裁判官が優しいいたわりを見せることがしばしばありました。
しかし、そこから来る「特別扱い」こそが、かえって女性裁判官と男性裁判官とのあいだに壁を作っているところがあり、それは女性裁判官にとっても不利益であると嘉子は感じていました。
女性としてではなく、人間として見られるように。
それは、嘉子が最後まで持ち続けた強い意識でした。
同じ女性だからこそ、甘やかさない姿勢
当時の裁判所では、女性裁判官には感情的で決断力が足りないという「弱点」がある、という決めつけもあったようですが、周囲の同僚たちは、嘉子からはそのような「弱点」を感じてはいませんでした。
むしろ、嘉子からは、(明るい笑顔で、聡明さを押し出すというようなところはないにも関わらず)働く女性の代表という強さが滲み出ていました。
また、嘉子のいた民事第六部の判事室には久米愛や野田愛子もたびたびやってきて、「女性法曹」たちの意見交換の場にもなっていました。
嘉子は法廷においても、同じ女性だからこそ敢えて甘やかさないという姿勢を貫いていました。
例えば、若い男女の愛情のもつれから起こった事件の合議においては、嘉子は「女性ならでは」という視点からの指摘をする一方で、当事者が女性だからかばうというようなことは一切ありませんでした。
むしろ女性に対して厳しく批判的な意見を述べたりすることもよくあったようです。
※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
06/20 06:30
婦人公論.jp