息子の面倒を弟の妻に見てもらいながら<女性法曹のパイオニア>として飛躍した『虎に翼』モデル・嘉子。ただし特段「女性の問題」に熱心だったわけではなく…

(写真提供:Photo AC)
24年4月より放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』。伊藤沙莉さん演じる主人公・猪爪寅子のモデルは、日本初の女性弁護士・三淵嘉子さんです。先駆者であり続けた彼女が人生を賭けて成し遂げようとしたこととは?当連載にて東京理科大学・神野潔先生がその生涯を辿ります。先生いわく「裁判官として働く嘉子だったが、家に帰れば母としての顔も持っていた」そうで――。

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『虎に翼』あらすじ。休日返上で改稿作業を進める寅子(伊藤沙莉)。しかし航一(岡田将生)が…

母の顔

女性裁判官としての人生を歩み始めた頃の嘉子は、稲田登戸駅近くで、弟輝彦の家族と一緒に共同生活を送っていました。

息子の芳武は、輝彦の妻温子が面倒をみていたといいます。

芳武は、ゆかり文化幼稚園(藤田復生が創設し、弘田龍太郎が初代園長を務めた幼稚園で、世田谷区成城にあります)に通い、さらに玉川学園小学部へと進んで、すくすくと成長していました。

裁判官として働く嘉子でしたが、家に帰れば母としての顔も持っていました。

嘉子は、芳武が家の近所の踏切を渡って通学しなければならないのが「とても嫌」だと同僚に語っていました。

また、自身の同級生に商店街でばったり会った際には、芳武に水泳を習わせたいと思っているという話をしていたそうです。

穏やかな家族の生活が、そこにはありました。

愛児と新しい年を

一方で、嘉子は亡くした夫のことを思い出し、その寂しさから涙を流すこともあったようです。

この頃の嘉子と芳武の様子が、「愛児と新しい年を 和田嘉子さん」というタイトルの大きな写真で、1950(昭和25)年の『法律のひろば』に掲載されています。嘉子のにこやかな笑顔が印象的です。

『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(著:神野潔/日本能率協会マネジメントセンター)

なお、これは「婦人法曹告知版」というコーナーのページです。女性法曹の姿とそのキャリアとを紹介したコーナーで、他に門上千恵子、渡辺道子、石渡満子、久米愛の写真が掲載されています。

4人とも、嘉子と日本婦人法律家協会などで多くの接点を持ち、一緒に切磋琢磨した女性法曹の「パイオニア」たちでした。

日本婦人法律家協会

1950(昭和25)年、女性法曹が集まって、日本婦人法律家協会(1995年に日本女性法律家協会と名称を変更)が組織されました。

GHQ(この頃、まだ日本は連合国軍の占領下にあり、GHQが占領政策を実施していました)法務部の女性弁護士メアリー・イースタリングから、アメリカに婦人法律家の会があるので日本でも作ってみてはどうか、という提案を受けたことがきっかけでした。

(写真提供:Photo AC)

8月に非公式の最初の会合がもたれ、9月に会が発足し、規約などが整って正式に会が設立されたのが10月であると考えられます。

会の目的は、「婦人法律文化の発達と会員相互の親睦をはかること」でした。

会員は9月の発足の段階では10名(正式に会が設立された時には15名になっていたようです)、裁判官、弁護士、大学教員などで構成され、初代の会長は、嘉子とともに高等試験司法科に合格した弁護士の久米愛でした。

愛はその後26年間にも渡って、会長を務めることになります。

嘉子は副会長に

嘉子は副会長となり、愛を助けて会の運営に関わっていきました。

ただし、嘉子自身は、女性の社会的・政治的・経済的な問題に対する運動にとても熱心だった、ということではありません。それは、嘉子が裁判官だったということがありますが、それに加えて、嘉子の気持ちは男性・女性ということに関わらず、「人間」であるというところにあり、また自身の仕事を通じて、男女平等の実現に関わろうとしていました。

愛・嘉子以外に、野田愛子(書記に選任されました)、渡辺美恵鍛治千鶴子、人見康子(慶應義塾大学の共学一期生で、法学部法律学科の教授になります)、そして立石芳枝、石渡満子、渡辺道子などが初期のメンバーでした。

当初は小さな会でしたが、だんだんと人数は増えていきました。

1958年に「婦人法律家協会会報」第1号が刊行されますが、そこには85名の会員がいると記されています。

会員同士の親睦、研修、海外の法曹との交流(会の発足後すぐに、国際婦人法律家連盟にも加入しました)、女性法曹の地位向上などに向けて、積極的に運動していくようになります。

※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

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