『虎に翼』寅子モデル・嘉子の再婚相手は連れ子4人の裁判官「三淵乾太郎」。嘉子が4人の子と<親子の関係>を作るまでにはかなりの時間がかかり…

(写真提供:Photo AC)
24年4月より放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』。伊藤沙莉さん演じる主人公・猪爪寅子のモデルは、日本初の女性弁護士・三淵嘉子さんです。先駆者であり続けた彼女が人生を賭けて成し遂げようとしたこととは?当連載にて東京理科大学・神野潔先生がその生涯を辿ります。先生いわく「嘉子は名古屋での時間を通して、自立した女性の生活のあり方について、より深く考えるようになっていった」そうで――。

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明日の『虎に翼』。同居を望む直明に対し、頑なに花江が反対する理由とは。そして二人の意見を踏まえ、婚約者が出した提案とは…<ネタバレあり>

名古屋での生活(母として)

名古屋に移った嘉子は、千種区北千種弦月町の宿舎に住んでいました。

「社会で活躍する女性」の象徴とも言える存在であった嘉子の名古屋赴任は、名古屋駅前の電光ニュースで流れたといいますが、実際の生活は慎ましいもので、六畳二間の住宅で息子の芳武とお手伝いさんと、静かに暮らしていました。

勉強部屋には机を二つ置いて、本棚には嘉子の法律関係の書籍と、中学生の芳武の書籍とが、仲良く並んでいたそうです。

嘉子にとって、慣れない地での仕事と子育てとはたいへんで、寂しさが募ることもありましたが、でも、充実した時間でもありました。

嘉子はこの名古屋での時間を通して、自立した女性の生活のあり方について、より深く考えるようになっていきました。

嘉子は、名古屋の裁判所の俳句会にも参加するなど、同僚たちと親しく交流しました。

この頃作った句は、俳句会のまとめた『想い出』という冊子に収められています。

例えば、「子等の追う先さきを行く目高かな」・「春の水面ちかぢかとボート漕ぐ」などがあります。

これらは、俳句会の吟行会に息子の芳武を連れて出かけ、公園でボートに乗った際に詠んだと思われます。

仕事を離れた嘉子の穏やかな様子が浮かびます。

再び東京へ、そして再婚

名古屋での生活は、楽しいこともたくさんありましたが、一方で母一人・子一人の生活は負担も大きく、寂しさもありました。

1956(昭和31)年5月、41歳となっていた嘉子は東京へ戻り、東京地方裁判所で再び勤務することになります。

『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(著:神野潔/日本能率協会マネジメントセンター)

嘉子が所属することになった民事24部では、裁判長と陪席裁判官とを交代制にしていました(他では、部の総括者を決めているか、年長者が事実上の総括者となり、裁判長になっていました)。

そのため、嘉子もしばしば裁判長として、法廷指揮をする機会がありました。

珍しい女性裁判長に対して、時に風当たりも強い中で、嘉子は厳しく、しかし闊達かつオープンに、それにあたったと言います。

また、裁判官全員の研究会において、嘉子が穏やかに、しかし筋の通った説得力のある発言をいつもしていたこと、嘉子の発言があると皆が耳を傾けたことなどのエピソードも残っています。

新しい生活

東京へ戻って3か月経った8月に、嘉子は同じ裁判官の三淵乾太郎と再婚することになりました。

乾太郎は、初代最高裁長官であった三淵忠彦の子息で、教養と気品あふれる紳士であり、その判例解説が名文であるということも評判でした。

<『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』より>

優秀な2人をいつ誰が引き合わせたのかはよくわかりません。ただ、この時すでに亡くなっていた、乾太郎の父忠彦のことは、嘉子は以前からよく知っていました。

忠彦の戦前の著作である『日常生活と民法』を再刊した際(1950年)、その頃最高裁判所事務総局民事局長であった関根小郷から声をかけられ、内容が新しい民法に対応するようにと、関根と2人で補修をしたことがあったからです。

また、嘉子が家庭局にいた頃に最高裁判所事務局(事務総局)で秘書課長・総務局長を務め、嘉子に大きな影響を与えた内藤頼博によれば(内藤は1963年から1969年まで東京家庭裁判所所長を務め、嘉子とまたともに働くことになります)、嘉子に「白羽の矢」を立てたのは三淵乾太郎の母親である三淵静で、関根小郷夫妻の媒酌で式を挙げたそうです。

2人の仲の良さをよく覚えている同僚たちの複数の「証言」が、『追想のひと 三淵嘉子』の中には残っています。

2人の式は派手なものではなく、簡単なパーティーのようなかたちで済ませてしまったということですが、それはお互いに配偶者と死別した再婚で、またお互いに子どもがいたからなのかもしれません(乾太郎には、亡くなった妻の祥子とのあいだに、那珂・奈都・麻都・力の4人の子がいました)。

新婚の2人は、結婚していた那珂以外の子どもたちと一緒に、目黒で新しい生活を始めました。

厳しく激しい子育ての一面

明朗快活な嘉子でしたが、厳しく激しい一面もあったといいます。

(後の仕事ぶりにも表れるように)子どもの健全育成に強い関心を持っていた嘉子は、親が過剰に愛情を注いで過保護にすることにより、子どもがわがままになり、人を傷つけることを気にしないような人間になることを心配していました。

子育てにおいても、その姿勢が強く出ていたと言います。

乾太郎の4人の子どもの1人である三淵力は、「一人息子、芳武を連れて嫁して来た時、継母は、さぞや敵地に乗りこむ進駐軍、といった心がまえであっただろう」と回想しています。

乾太郎の4人の子どもたちと嘉子とが、親子としての関係を作り上げていくのには時間もかかったでしょう。

力は、「昨日、仲むつまじかったかと思うと、今日はもう言い争い、といった風に波乱が起き、我が家は平穏とはとても言い難い状態になった」「(嘉子の―筆者註)ミスを指摘し、糾弾することは、大変な勇気のいることであった」などとも書いています。

それは、嘉子らしいひたむきさの表れであると同時に、裁判所で見せている姿とは少し違った、ある意味で人間らしい一面だったのかもしれません。

※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

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