《誰も相撲界に残らず》曙太郎さん死去 「若貴」との“同期3横綱”が全員、角界を去らなければならなかった本当の理由

3人で大相撲ブームを巻き起こした(左から貴乃花、若乃花、曙)

 大相撲史上初の外国出身横綱となった曙太郎さんが54歳の若さで亡くなったニュースは、相撲ファンだけでなく日本中に大きな衝撃を与えた。同期生でともに横綱まで上り詰めた三代目若乃花と貴乃花がそれぞれの言葉で哀悼の意を表した。3人の元横綱は廃業して角界から去っていったが、彼らが協会に残っていれば──と改めて関係者の間で囁かれている。

【写真】闘病生活中に痩せ細った曙。女優・相原勇の現在の姿も。

 史上最強といわれる「花の六三組」のひとりである元大関・魁皇(現・浅香山親方)が今春から相撲協会の理事に就任した。彼らが協会の執行部として舵取りをしていく世代になったということになる。だが、今の協会に花の六三組の横綱経験者は一人も残っていない。相撲ジャーナリストが言う。

「貴乃花は2010年の理事選で“貴の乱”を起こして37歳の若さで理事になったが、角界の慣例である年功序列に従っていれば、ちょうど今くらいが理事になる年齢だった。実際、二所ノ関一門からは同世代の元関脇・琴ノ若(現・佐渡ヶ嶽親方)、元関脇・安芸乃島(現・高田川親方)が理事を務めている。

 そう考えれば、今のタイミングで若貴がともに理事というのは十分にあり得たし、曙も高砂一門で八角理事長(元横綱・北勝海)の後継者となれたでしょうね。魁皇も含め、平成の相撲ブームを盛り上げたガチンコ力士たちが協会を運営していれば、どんな土俵になっていたか。想像するだけでワクワクします」

年寄株をめぐる問題

 しかし、彼らは協会を去っていった。しかも、それぞれに違う理由で廃業していったことが興味深い。

 最初に協会を去ったのは三代目若乃花だった。2000年3月場所で現役を引退し、「藤島」を襲名したが、同年12月に突然廃業してしまった。親方のひとりが言う。

「弟子育成に興味がなかったわけではなく、二子山親方(当時、元大関・貴ノ花)が部屋を譲る話もあったが、若貴兄弟の不仲が原因で実現しなかった。若乃花が部屋の師匠になって貴乃花が納得するとは思えなかった。二子山部屋の年寄株である『藤島』を継承したが、告白本やディナーショーが批判されるなど人間関係に嫌気がさしてアメフトに挑戦するということで廃業しました。ただ、その後はスポーツキャスターやタレントとして活動を始め、実業家としてちゃんこ店のチェーン化などにも手を伸ばしました」

 一方、実弟である貴乃花は“平成の大横綱”と呼ばれ、優勝回数は22回。2003年の引退後は、功績著しい横綱として現役名のまま協会に残れる「一代年寄」を襲名した。

「貴乃花は一代年寄として協会に骨を埋めるつもりだったが、弟子の育成より協会の運営に興味を持ってしまった。大鵬、北の湖という大御所をバックに若くして理事になったが、2人が相次いで亡くなって後ろ盾を失ったことで、反貴乃花派の追い詰められるように失脚した。年功序列を守っていれば間違いなく理事長になっていたでしょう。

 2001年1月に引退した曙は“プロレス入り”“ハワイ州知事転身”“スポーツキャスターへ”などと騒がれたが、引退時は協会に残りたいと希望していた。協会もその指導力を評価しており、相撲ブームへの貢献に加え、巡業などで若手に稽古をつけたことが評価されて千代の富士と同額の特別功労金1億円が支払われたほど。しかし、当時高騰していた年寄株が入手できなかった」(前出の親方)

数多くの惜しむ声

 引退後、横綱経験者は5年間の期間限定で現役時代の四股名のまま協会に残れる仕組みがある。前出の親方のひとりはこう話す。

「曙もその制度を使って現役名のまま親方として協会に残り、エリートコースである記者クラブ担当などを経験したが、約3年後の2003年11月にいきなり廃業。その年の大晦日のK-1に参戦した。女優・相原勇との破局後、後援会幹部らが結婚相手の面倒を見ようと尽力したところに現夫人とできちゃった婚となり、後援会が解散してしまった。当時の東関部屋後援会からの反発もあって、窮地に陥った曙は年寄株を取得する資金が集まらず、廃業の道を選ぶしかなった」

 ただ、協会を去った後は、K-1だけでなく、総合格闘技、プロレスなどのリングを沸かせた。闘病生活は7年に及んだが、常に夫人ら家族のサポートがあったという。その早すぎる死を悼む声とともに、もし角界を去らなければ、と惜しむ声も多い。

 同期の3横綱のなかで、角界に一番未練がないように見えた若乃花が相撲の解説をやっており、一大ブームを支えたライバル2人は角界から遠く離れてしまった。人生とはわからないものなのかもしれない。

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