伊藤比呂美「保護猫エリックあらわる」

「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」(画=一ノ関圭)

(画=一ノ関圭)
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。今回は「保護猫エリックあらわる」。隣家の庭先にあらわれた仔猫を、一時的にお世話することになり――(画=一ノ関圭

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その朝、起きたら、集合住宅の隣人からLINEにメッセージが入っていた。「伊藤さん、某さん(うちの左隣)の庭に仔猫がいるので保護していただけると助かります。追い払ったけどまだそこらにいるようです」。外に出ていって、隣人たちがわらわらと「まだいる、ほらそこ」と指さす先を見たら、小さい仔猫がちょこんとしげみの中にうずくまっていた。あたしはすばやくつかみ上げ、少しかまれ、でも隣人たちに喝采された。

仔猫はほんとに小さくて、ケージの中でずっと鳴いてるのだった。目が合うと、シャーッと精いっぱいの怖い顔をするのだった。

あたしは友人のナミさん、これまでに世話した猫は数知れずという保護猫名人に連絡した。そしたら、とりあえず獣医に連れていったほうがいいと言う。感染症にかかっていないか、ノミやダニはいないか、調べてもらって処置してもらったほうがいいと言う。で、行きつけのタカタ動物病院に、ついでにニコも連れていこうと考えた。

19歳になる老犬ニコ。

たいてい眠っているのだが、この頃老衰が進んだようで、眠り方がおそろしい。全身脱力しきって眠るのである。食べる量も減った。ドライフードは食べたがらないが、肉は食べる。でもここ数日食べると吐いて、あっという間に軽くなってしまった。

死も近いかと思いつつ、ニコほんにんは穏やかだから、このままこのままと思っていたのだった。動物病院に連れていったって何かしてもらうつもりはないけれども、ニコを知ってる人たちに、今この状態ですと見せたいと思った。ところがその日、午前中の診察には間に合わず、午後はしめきりと打ち合わせが重なって、まったく動けない。

困っていたところに現れたのが、愛犬教室のカマダ先生だ。この人こそニコをよく知ってる人の筆頭だが(いつも預けている)、なんと二匹を動物病院に連れていってくれたのだった。そしてやってもらったのが、仔猫を登録して諸検査とノミダニの処置。ニコに吐き気止めの注射と脱水症状対策の点滴。

点滴の効果はすごかった。行く前のニコは卵の殻みたいに軽かったのに、帰ってきたのを抱き取ったら、生気と重みが感じられた。そして行く前の仔猫はシャーシャー怯えて怒ってたのに、帰ってきたときにはおとなしくだっこされ、膝の上でちゅーるを食べて眠る仔猫に変貌していたのだったった。「車の中でもずっと撫でていたんですよ」とカマダ先生は事もなげに言ったけど、プロのわざは点滴なみにすごかった。

仔猫の登録名は、伊藤エリック。

いや、仮名ですけどね。うちの二匹がメイにテイラーだから、今度はマーキュリーか、エリックならクラプトンかと考えたが、いやいや飼うわけじゃない。保護しただけだ。一時的に世話してるだけだ。

エリックは、ケージに入れとくとずっと鳴いてる。泣いてるといってもいい。それでエプロンのポケットに入れてみたら、泣きやんだ。ポケットは重たく、温かく、あたしはそのまま、エプロン装着のカンガルー姿で夜を過ごした。

エリック、ポケットから出すと鳴き始めるから、あたしは指に唾をつけ、小さい眉間を鼻から額にかけて撫で上げた。母猫のまねなんである。母猫は肛門のあたりもよくなめて排泄をうながすんだろうが、それはちょっとやりたくないので、指で叩いて刺激した。そしたら素直なことにエリックは、だーとおしっこして、あたしの服も足も濡らしたのだった。温かかった。

夜はエプロンごとケージに入れた。チトーのためのケージだが、チトーは一度も入らないので、最近はニコの別荘みたいになってたのである。そこにエリックを入れて、戸を閉めたら、エリックはニコのふかふかベッドで朝まで眠ったのでありました。

ところが翌朝、ケージから出してちょっと目を離した隙にエリックがいなくなった。そして何の物音も鳴き声もしなくなった。

ソファーの下にもいない。ピアノの裏にもいない。植木鉢の裏にもいない。押入れの引き戸が2、3センチ開いていたから(メイが開ける)、まさか入れないだろうが万一と思って中を探したが、やっぱりいない。台所あたりにムカデやゴキブリといった生物の通る、外に通じる穴があるようだが(彼らはときどき出てきてメイたちに退治される)、仔猫がそこを通れるとは思えない。

そのときあたしは、以前ナミさんに聞いたことを思い出した。仔猫を保護するとき、スマホで猫の声を鳴らすと、隠れている仔猫が出てくるとナミさんは言ってたのだ。それであたしはスマホに取りつき、「母猫が仔猫を呼ぶ声」というのを見つけ出し、鳴らしたとたんにエリックが飛び出してきた。

さっきまで不安で泣いていた仔猫が、そしてここ数十分は暗がりの中で息をひそめていた仔猫が、「あ、おかあさんだ」と喜びに満ちあふれ、手足をのびのびと広げ、口におっぱいの感触を期待しながら、ぱっと躍り出てきたのだ。

その瞬間、あたしは自分の罪深さに打ちのめされた。

こんな幼い仔猫をだましてしまった。

だまされた仔猫が不憫でならなかった。

母猫を慕う心が、不憫でならなかった。

せめてもの罪滅ぼしに、あたしはつかまえたエリックを抱いて、唾をつけた指で、眉間といわず顎の下といわず、母猫がなめるように丹念にこすり立て、満足のごろごろを言わせてゆっくり寝かしつけてやった。

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