エース石川祐希の<高校時代>。当時の強豪チームは短髪、練習着は全員そろいが大半だった。でもそれが勝敗に関わっているかというと…

まっすぐインタビューに答える石川祐希選手(写真提供:徳間書店)
パリ2024年オリンピックで<世界の頂>へ挑んだ石川祐希。彼はいかにして世界に誇る日本のエースになったのか? オリンピック出場にかけていた思いとは? そもそもどのようにしてバレーボールと出会ったのか――。石川選手の魅力に迫った『頂を目指して』から一部を抜粋して紹介します。

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片手に本を持つ石川祐希選手。もう片方の手に持つのはやはり…

自主性のなかで日本一を目指す

星城高校を選んだ理由はシンプルだった。
中学のときのJOC杯で一緒に戦った川口太一(かわぐちたいち)が、「俺は星城に行く」と言っていたのを聞いて、「一緒にやりたい」と思ったからだ。

卒業後に日本のVリーグへ進み、その後、イタリアにも一緒に行き、ドイツやフィンランド、Vリーグのウルフドッグス名古屋でプレーすることになる太一は、当時からバレーボールが上手でセンスも抜群だった。

高校でもチームメイトとして戦えたら面白いバレーができるだろうなと思った。
そして、太一だけでなく、同じ愛知選抜のメンバーだった山崎貴矢(やまざきたかや、※崎はたつさき)や神谷雄飛(かみやゆうひ)も星城高校に進むことを聞いたからだ。

中学で全国大会に出場するようになって、やっと春高バレーの存在を知ったばかりの僕は、どこが強いというのはよくわかっていなかったけれど、星城高校が2008年のインターハイ(全国高等学校総合体育大会)で優勝したというのは知っていた。

中学で叶えられなかった日本一を目指して、いちばん楽しくバレーボールができるのはきっとここだ。

そう考えて、僕は星城高校を選んだ。

僕がいた「星城高校」のチームの特徴

「日本一」を目標にしているチームがどんな雰囲気で練習しているのか。
みんなはどんな姿を思い浮かべるだろう。

厳しい監督やコーチのもとでピリッとした空気感のなかで練習している様子を想像する人も多いかもしれない。

では、星城高校はどうだったか。
むしろ、その真逆だった。

監督の竹内裕幸(たけうちひろゆき)先生は厳しいときは厳しいけれど、頭ごなしに叱りつける人ではなかった。
先輩と後輩の上下関係もほとんどなくて、先輩は優しいし、学年に関係なく全員の仲が良かった。

練習も先生が考えたメニューだけでなく、選手主導で日々練習するチームだった。
バレーボールをするうえで、チームとして目標を叶えるために必要な決まり事はあるけれど、余計なルールは省いたチームだった。

象徴的だったのが練習着や髪型だ。
当時は全国の強豪といえば髪は短髪で、練習着も全員が決まったものをそろいで着るチームが大半だった。

多少違っていたとしても、色の指定はあって、時折チームカラーが赤や黄色で派手な練習着のチームもいたけれど、ほとんどは白や黒。

一方で、練習着も髪型も一切決まり事のない星城は、「派手だ」とか「チャラチャラしている」と思われていたはずだ。

でも僕は、練習着や髪型がバレーボールの技術向上や勝敗にかかわっているとは思わない。
見た目は派手に映ったかもしれないけれど、何より僕たちは日々、妥協せずに厳しい練習をしてきたと胸を張ることができる。

結果は自分に返ってくる<自主性>を重視した練習

でも、サボれば確実に自分に返ってくる。
象徴的なのが星城高の伝統的な練習でもある30分走だ。

その名のとおり30分間、学校の校庭をひたすら走るメニューだ。
走るのが得意な選手もいれば苦手な選手もいるし、その日の体調もある。

だから「必ずこの距離を走りなさい」と決められるのではなく、それぞれの判断に委(ゆだ)ねられる。
決められているのは「30分」という時間だけだ。

そこで毎日全力で走って、自分の限界に挑戦するか、面倒だからと手を抜いて走るかは自由だ。
でも、結果は自分に返ってくる。

『頂を目指して』(著:石川祐希/徳間書店)

だから、むしろ僕は強制されるよりもよほど厳しい環境だったと今でも思っている。
ボール練習も同じだった。

基本的には竹内先生から、今はこれが必要だというメニューが提示されるが、そこに加えて僕たち選手が練習内容を加えていく。

スパイクをもっとやったほうがいい、この間の試合でディフェンスがよくなかったからディフェンスの練習をしたい、と考えれば自分たちでメニューを考えて、実際にボールを打つのも竹内先生ではなく選手同士で行う。

入学したばかりのころは、どんな大会があるのか、どういうサイクルで回っているのかを理解していなかった。

でも、日々練習していくなかで、インターハイや東海大会、国体(国民体育大会)や春高などさまざまな大会につながる県予選や地区大会はほぼ1年をとおして開催されることがわかっていった。

それにともない、最初は全国ベスト8を目標にしていた僕も、自分たちで考えながら強くなるために練習する星城高校で、少しずつ高い目標を抱くようになっていった。

仲間のためにがんばるということ

高校時代に学んだことは、ほかにも数え切れないほどにある。

竹内先生は本当に選手の自主性を重んじる人だった。
普段から怒ることは滅多にないし、技術のことで怒ることはまずない。

でも、そんな竹内先生が何度も繰り返し僕たちに言い続けて、ときに厳しい言葉で 伝え続けたのが、人を重んじることだった。

とくに下級生には、「先輩のために戦う」ことの大切さを教えていただいた。
大会が近づいたときはもちろん、事あるごとに竹内先生はこう言った「3年生のためにがんばれ」

1年生のときだけでなく、2年生のときも同じだ。
僕のように1年生から試合に出ている選手には、より強く言っていたかもしれない。

バレーボールはチームスポーツだ。
当然、先輩も後輩も関係なく、チームが勝つためにそれぞれの力を尽くし、役割を果たす。 

僕も「先輩のために」という思いはつねにもって戦っていたつもりだった。
でも、本当の意味で、「3年生のために」と意識した瞬間があるとしたら、高校2年の春高だ。

先生からの叱責をきっかけに、チームのエースとして意識したこと

1年のときはベスト16だった。
2年のときは夏のインターハイを制し、国体も制した。

あと1つ、1月に開催される春高で勝てば、僕らは三冠を達成することになる。
大会前から注目されるようになっていたけれど、「優勝候補」といわれることに対してプレッシャーは感じていなかった。

春高が迫れば、練習試合も増える。
竹内先生の雷が落ちたのはそんなときだ。

当時、チームではエースとして、僕が攻撃の中心にならなければいけないことは理解していた。
ただ、同学年には山崎や神谷もいるので、攻撃枚数が少ないわけではない。

いろんな選手がいるなかで、自分も決めればいい。
僕なりにそう思って、日本一、三冠を目指してやっていたつもりだった。

しかし、竹内先生は、そんな僕の姿勢を強く叱責した。
「お前が打たないでどうするんだ。俺がチームを勝たせるんだという気持ちでプレーして、引っ張って、3年生を勝たせるんだよ」

いろんな経験を重ねた今の自分ならば、僕のプレーがあまりよくないことと、3年生に対する思いとはかかわりないと、イコールではないと、言い返すこともできるかもしれない。

でも、そのときは素直に「そのとおりだ」と思って反省し、より強く「3年生のために」と意識をしたことを覚えている。

2013年1月、ついに二度目の春高が開幕した

初戦となった2回戦の駿台学園戦から僕たちは勝ち進み、3回戦では東福岡高校、準々決勝で鎮西高校、準決勝で鹿児島商業高校を破り、大塚高校との決勝へと進んだ。

準々決勝までは3セットマッチだけれど、準決勝からは5セットマッチになる。
普段からよく練習試合もしてきた大塚高校を相手に、僕らは先に1セットを取ったあと、大塚高校が2セット目を奪取。

3セット目を僕らが取り返し、デュースまでもつれた第4セット、優勝まであと1点と迫った25対24のマッチポイントで、僕にサーブの順番が回ってきた。

そのとき、僕は決して大げさではなく、心からこう思った。
「この1本に勝敗がかかっているんだ。3年生を勝たせるため、この1本、獲るぞ」

バレーボールを初めてから数えきれないほどのサーブを打ってきた。
けれど、何も考えずに打つよりも、その1本に意味を込めて打つときのほうが、僕の場合はいいサーブを打てる確率が高い。

人によっては「大事な1本だ」と気負ってミスをしてしまうかもしれないけれど、僕はそう思ったほうがいいサーブを打てる。

三冠を決めた1本は、まさにそんな1本だった。

「3年生のために」打ったサーブは、サービスエースになり26対24。
3対1で星城高の初優勝が決まった。

インターハイ、国体に続き春高を制して三冠を達成した瞬間、僕はとにかく嬉しくて、「よっしゃ、決めたぞ!」と心からはしゃいだ。

勝った瞬間はとにかく嬉しくて、表彰式のときも僕はずっと、3年生の先輩たちや同級生後輩たちと笑っていた。

※本稿は『頂を目指して』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

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