エース石川祐希が初めて綴った<本音>。パリ五輪出場権獲得の瞬間の心境は「喜び」より実は…

片手に本を持つ石川祐希選手。もう片方の手に持つのはやはり…(写真提供:徳間書店)
パリ2024年オリンピックで<世界の頂>へ挑んだ石川祐希。彼はいかにして世界に誇る日本のエースになったのか? オリンピック出場にかけていた思いとは? そもそもどのようにしてバレーボールと出会ったのか――。石川選手の魅力に迫った『頂を目指して』から一部を抜粋して紹介します。

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片手に本を持つ石川祐希選手。もう片方の手に持つのはやはり…

あと1点

目指したパリオリンピックの出場権獲得は、今、目の前に迫っていた。

2023年10月7日、FIVBワールドカップバレーパリオリンピック予選の日
本対スロベニアの試合。

満員の国立代々木競技場第一体育館で、僕はサーブエリアに立った。
エンドラインから6歩、どんなときも平常心でサーブを打つためのルーティンだ。

何が何でも自分で決めてやろうとか、この1点ですべてが決まるといった余計な気負いはない。
これまで数え切れないほどに練習を重ねてきた。

いつもどおり、いいトスを上げて、しっかりジャンプして、「ここ」というポイントで打つ。

どんな状況でもベストサーブを打つことだけを心掛けて、僕はサーブのモーションに入った。

2セットを日本が連取して迎えた第3セット、24対17。
この試合を日本がセットカウント3対0で勝てば、パリオリンピック出場が決定する。

絶対にストレート勝ちをしなければならない、ストレート勝ちで決めたい、という思いの強さが裏目に出て、前半は苦戦を強(し)いられた。

「チーム」として勝つために

でも、第1セット中盤で同点に追いつくと、一気にムードと流れが変わる。
それぞれがいつもどおり、劣勢からもやるべきことをやって、得点を重ね、念願のストレート勝ちまであと1点。

点差の余裕もあり、僕は思い切って得意なコースをめがけてサーブを打った。
結果は、わずかにアウト。
エンドラインをオーバーして、24対18。

自分のサーブで勝利を決めることはできなかったけれど、僕はまったく気にならなかった。
「いいところを見せてやろう」とか「主役になりたい」という思いはまるでない。
チームとして勝つために、最善を尽くす。

スロベニアのサーブからのマッチポイントも、自分で決めたいと考えることなく、自分のところにサーブがきたら、攻撃につなげられるようにサーブレシーブを返す。
ただ、それだけを考えていた。

会場で見ていた1万人を超えるファンの方々や、テレビの前で応援してくれていた方々は、あの瞬間をどんな思いで見ていたのだろう。

最後の1点を誰が決めるのか。
どんなかたちで日本が25点目を獲(と)るのか。

念願のオリンピックの出場権獲得

長く応援して下さっている方のなかには、もっといろいろな思いが込み上げていた方もいたかもしれない。

想像もできないほどたくさんの方々の注目が集まるなかでの最後の1点は、スロベニアのサーブが日本のエンドラインを大きく割り、サーブミスでの25点目。

ラインをオーバーするところまでしっかり見届けて、僕は勝利を確信した。
「やったー!!」
ベンチのフィリップ・ブラン監督や、スタッフ陣、アップゾーンでずっと声を出し 続けていたリザーブの選手たちが一気に駆け寄り、コートへなだれ込んでくる。

まさに割れんばかりの会場の大声援も聞こえた。
ガッツポーズをしながらコートを1周する選手や、同じポジションの選手同士で抱き合う姿も見えた。 
それぞれがそれぞれのかたちで喜び合う光景を見て、僕は心の底から思った。

終わった。
僕らはオリンピックの出場権を手に入れた。
勝ったんだ。

2023年のシーズンが始まるときからずっと、僕たち男子バレー日本代表にとっていちばん大きな目標、最大のターゲットが、パリオリンピックの出場権を獲得することだった。

「オリンピック出場」という目標を達成できた安堵

6月から7月まで開催されたネーションズリーグで3位になり、初めて銅メダルを獲得したときも、8月のアジア選手権で3大会ぶりに優勝してアジアナンバーワンになったときも嬉しかったけれど、心の中では「まだまだ、オリンピック予選がある」 と全員が思い続けてきた。

そして、そこで勝つための準備もしてきた。
ところが、万全の状態で臨(のぞ)むために日々過ごしてきたにもかかわらず、僕はアジア選手権を終えてから腰痛を発症してしまった。

9月30日、パリオリンピック予選が始まる。
大会直前から、大会が始まってからも、ベストコンディションには程遠い状態だった。

けっして焦(あせ)る気持ちがあったわけではない。
でも、初戦はフィンランドに2対0とリードしながら追い上げられ、辛(から)くもフルセット勝ち。

翌日のエジプト戦も2対0から追い上げられ、フルセットで逆転負けを喫した。
3戦目のチュニジア戦でようやく3対0、そこからはトルコ、セルビアという難敵相手にもストレート勝ちを収めることができた。

それでも油断はしなかった。
最後の最後まで何が起こるかわからない。
1点や1セットが重要になるのがオリンピック予選だ。

つねに極限まで緊張感を高め続けてきたこともあり、スロベニアにストレートで勝った瞬間、僕の中に溢(あふ)れたのは爆発的な喜びではなく、目標を達成できたという安堵(あんど)だった。

感情が込み上げたのは、西田有志(にしだゆうじ)選手の涙を見たときだった。
コートの中でいつも熱くプレーして、誰が獲った1点でも全力で喜ぶ。
そんな西田選手の涙を見たら、思わず僕ももらい泣きしてしまった。

振り返れば高校時代や大学時代も、日本一になったときや負けてしまったあと、いつも誰かの涙にもらい泣きしている。

オリンピックに出たい、メダルを獲れる選手になりたい

オリンピックの出場権を獲得したら泣くだろうなとは思っていたけれど、やはりここでももらい泣きしてしまった。

キャプテンとして、最初にコートインタビューへ呼ばれた。
オリンピック出場権を手に入れた、今の気持ちを聞かせて下さい、と言われ、僕はありのままの思いを言葉にした。

「目標を達成したので、すごく嬉しいです。最高のメンバーで、自分たちの強さを証明することができました」
話しているうちに胸が熱くなって、また、涙が込み上げた。

僕はいつだってバレーボールが大好きで、バレーボールをしているだけで楽しいけれど、目標を成し遂げることができたこの喜びは、何物にも代えられないぐらい最高のものだった。

振り返れば、僕が日本代表選手に初めて選ばれ、プレーしたのは2014年。
当時はまだ中央大学の1年生で、日の丸やオリンピックの重みなど、まるでわかっていなかった。

自分よりも年上の先輩たちに囲まれて、何をすればいいのか、この大会がどれぐらい価値があるものなのかもきちんと理解しないまま、ただ全力で自分のいいパフォーマンスを発揮するために必死だった。

1つずつ、目の前の試合を戦うなかで、アジア大会、ワールドカップ、世界選手権など、いろいろな経験を重ねてきた。

2016年にはリオデジャネイロオリンピック出場に向けて予選に出場したけれど、 勝つことはできず、8月にブラジルで開催された大会を現地で見て、僕は初めてオリンピックのすごさを知った。
そして、そのとき初めてこう思った。

「オリンピックに出たい。出て、ここでメダルを獲れるような選手になりたい」5年後、1年の延期を挟んで2021年に東京オリンピックが開催された。

「世界の頂」を目指すコートの上で思うこと…

僕は日本代表のキャプテンとして東京オリンピックのコートに立ち、目標だったベスト8進出は果たした。
でも、時はコロナ禍(か)で、大会は無観客での開催だった。

オリンピックはどれほど熱狂する舞台なのか。
僕はまだ、満員の観客が押し寄せるオリンピックのコートに立った経験がない。

日本代表に選ばれた2014年、初めてイタリアのモデナに入ってセリエAを知り、バレーボールがこれほど熱狂するスポーツなのかということを現地で実感した。

そして、大学在学中の2016-2017シーズンと、2017-2018シーズンはラティーナ(現チステルナ)で、大学卒業後、2018年からはプロになり、シエナ、パドヴァ、ミラノとイタリアで9シーズンを過ごしてきた。

コッパ・イタリアや、セリエA1リーグのプレーオフ(リーグ戦上位8チームによる優勝決定戦)。
熱気に満ちた大舞台で、最高のパフォーマンスをする喜びも味わった。

1つずつステージが上がるたび、「次はこうなりたい」「こうしたい!」と新たな目標を立て、最大限の努力をして叶(かな)えてきた。

バレーボールを始めた小学生のころは、「日本代表になりたい」と考えたこともなく、オリンピックにも興味はなかった。

ただ大好きなバレーボールを全力で楽しみ、そのときどきの、さまざまな「頂(いただき)」を目標として、それを超えてきた。

そして、もう間もなくパリオリンピックが開幕する。
2024年7月、僕は「世界の頂」を目指すコートの上で、どんな思いを抱くだろうか。

※本稿は『頂を目指して』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
 

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