伊藤比呂美「白いコートとジャムの瓶」

(画=一ノ関圭)

(画=一ノ関圭)
詩人の伊藤比呂美さんによる『婦人公論』の連載「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。伊藤さんが熊本で犬3匹(クレイマー、チトー、ニコ)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。今回は「白いコートとジャムの瓶」。昔はポーランド語で、かんたんなことなら話せた。それは四十年前、ポーランドに住んだことがあったから――(画=一ノ関圭

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ベルリンからポーランドに行った。

ベルリンの西のほうならやや知ってるが、このたびは東のほうの知らない駅前の知らないバス停で、知らない町行きのバスを待っていた。その町のことをベルリンの人に言ってもなかなか通じないので、よほど小さな町なんだろうと思っていたら、そういうわけでもなく、昔はドイツ領だったから、ドイツ名でみんなが知ってる町だった。ポーランド名とは最初と最後の音が同じなだけで、あとは全然違うのだった。

バスが来たが、このバスは違うと隣に立っていた人が言った。

待っている人々はみんなポーランド語をしゃべっていた。このバスは違うと教えてくれた人も英語はしゃべらなかった。昔あたしはポーランド語で、かんたんなことなら言えたし、買い物もできた。でも今思い出せるのは「どこ」と「まだ」。そんな言葉でも言えば通じて、相手は顔や手で答えてくれた。

昔、と言ったが、二年や三年じゃない、四十年前になる。一九八二年、あたしは前の夫とポーランドに一年間住んだ。それから一九八八年、また一年間住んだ。そのときは四歳と二歳の子どもたちもいた。

今回のこの旅は、まず日本国内あちこち、それからトリノ、ベルリン、ポーランド、オスロ。熊本を出る前にお天気をチェックしたら、どこも日本と大差なかった。だからあたしは薄いコート一枚だけ持って夏服をつめて家を出た。ところが渡航直前、トリノの人たちとZoomミーティングしたら、かれらはセーターを重ね着して、突然すごく寒くなったと言っていた。南のトリノでそうなんだから北は推して知るべし。

そしたら入院中の枝元から指示がきて(あたしは東京で枝元のいない枝元の家に泊まっていた)、タンスの何番目のどこに何が、何番目にあれが、と似合いそうな厚めの服を考えてくれた。あたしはいつも借りている。ブラジャーまで借りることがある。

綿の白いコートがあった。それを持って出て、飛行機の中で着て、それ以来ずっと着ている。同行二人(どうぎょうににん)、お遍路さんがつねに弘法大師と一緒にいるという言葉だが、あたしは入院中の枝元を背負って、つねに一緒の心持ちである。

そういえばあたしがポーランドから帰ってきた次の年、枝元も転形劇場の公演でポーランドに行った。どこに行ってあれを食べよ、これを食べよと教えた記憶がある。枝元にとってもポーランドはそれ以来に違いない。懐かしくてたまらないに違いない。

同行二人のコートを着て、ポーランド行きのバスに乗った。そして窓にかじりついて外を見ていた。木々や草々や標識や。そのうちちょっとうとうとして、目が覚めたらポーランドだった。木々や草々は変わらないのに標識がポーランド語になっていた。

バスはドイツの高速道から降りて違う道を走った。大きな立て看板にポルスカ(ポーランド語でポーランドの意)と書いてあった。国境を越えてすぐだったのだ。

四十年前にくらべて看板には英語が多く、昔には絶対なかったような大きなピカピカの建物、KFCの広告、西ドイツみたいな綺麗な民家もあって。おっと「西ドイツ」、今はないのか。昔、ポーランドから東ドイツや西ドイツを越えてパリまで行ったとき、西側の国々の家の綺麗さに驚愕したのだった。

バスが停まり、降りる人がいて、また走り出した。

考えてみたらあたしがポーランドについて知ってる部分は、自分が見た、観察したというよりも、当時の夫から日本語で聞いたものが多いのだ。夫は偏屈な男で、偏屈なポーランドの作家を研究していて、偏屈が偏屈に偏屈なふうに伝わって、あたしもかなり偏屈なポーランド観を持っていたんじゃなかったかと思う。でもその他に、二回目のポーランド生活で、あたしは、偏屈でない、生身の生きたポーランドも知った。

それが、ポーランド人の友人Mの両親だった。あたしたちがワルシャワにいたとき、友人Mは日本に留学中で、その親が、あたしたちを全面的に世話してくれたのだった。

うちの親みたいなワーキングクラスの夫婦で、子どもたちも、おじちゃんおばちゃんと呼んで、とても懐いていた。おばちゃんたちの生きる力の前には、偏屈な夫も、すべての偏屈な価値観を投げ出してひれ伏していたんじゃないかと思う。

あたしはおばちゃんが教えてくれるいろんな生活の知恵をたよりに、あの時代、社会主義の、崩壊直前の、モノの無い、厳しい時代を、まったくの外国人として生きた。

あたしは今、熊本で、毎年、庭に生るクワの実でジャムを作る。毎年よく生るから毎年作る。その時期はジャム屋になったみたいだ。今年もすっかり作り終えた時点で旅に出てきた。瓶をこつこつ集め、煮沸消毒して、ジャムを煮て、瓶に入れて蓋を閉める。

そのいちいちを、その昔おばちゃんから教わったことなんだと思いながら、手を動かしているのである。

おばちゃんの作った酢漬けのきのこやすぐりのコンポート。瓶の蓋がなかなか開かなくて、夫が「おばちゃん、どんな馬鹿力で」と言いながら格闘していたのを思い出す。

あたしもおばちゃんみたいに馬鹿力を発揮して、大の男が開けられないくらいに閉めようとするが、それが難しくて、どうしてもゆるくなる。人にあげる時は「なるはやで食べてね」と必ず言い添えているのだった。

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