『虎に翼』岡田将生さん演じる航一が隠してきた<秘密>。そのモデル・三淵乾太郎らは「ソ連参戦で敗戦」とまで予測するも開戦を止められず…そのまさかの理由とは

(イラスト:『婦人公論』1940年5月号より)
世界に衝撃を与えた真珠湾攻撃。それは日本が敗北への道を歩み始めた決定的瞬間でもありました。しかし、その攻撃が行われた昭和16(1941)年12月8日からさかのぼること約半年、若きエリートを集めた「総力戦研究所」で行われたシミュレーションで「日本はアメリカに負ける」と予言されていたのです。そしてその中には『虎に翼』で岡田将生さん演じる星航一のモデル・三淵乾太郎も――。『昭和16年夏の敗戦』(著:猪瀬直樹)をもとにその背景と経緯を紹介します。(全2回記事の後編)

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『虎に翼』次週予告。「今も優三さんを愛している」。航一を前に心が揺れ動く寅子。そして女学生・美佐江は「どうして、人を殺しちゃいけないのか」とつぶやき…

エリート集団「総力戦研究所」の出した結論

否応無しに総力戦に臨みつつあった日本には、早急に状況に対応しうる人材を育成する必要があり、急遽「総力戦研究所」が開設された。

研究生として集められたのは36名の「官民各層から抜擢された有為なる青年」。その所属は、大蔵省、商工省といった省庁のエリート官僚、陸軍省の大尉、海軍省の少佐、そして日本製鐵、日本郵船、日銀の職員、同盟通信のジャーナリストなど。

*編集部注:その中に、東京地方裁判所などを歴任していた初代最高裁長官三淵忠彦の長男・乾太郎も含まれた。

条件として挙げられたのは、「人格高潔、智能優秀、身体強健にして将来各方面の首脳者たるべき素質を有するもの」、そして年齢については「なるべく年令35歳位迄のもの」。

その彼らが、データと知力の限りを尽くし、2ヵ月の激論を経てたどり着いたのは、「緒戦、奇襲攻撃によって勝利するが、長期戦には耐えられず、ソ連参戦によって敗戦を迎える」という苦い結論だった。

現実をぴたりと言い当てたこのシミュレーションは、8月の末、当時の近衛内閣閣僚に直接報告された。そのなかにはもちろん、当時の陸軍大臣、のちに総理大臣を任命される東條英機もいたのだがーー

なぜ開戦に踏み切ったのか

ではなぜ、その4ヵ月後の12月、開戦に踏み切ったのか。

『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹・著/中公文庫)

10月に組閣された東條英機内閣では当初、開戦をめぐる議論はまったくの平行線をたどっていた。最終的な争点はやはり石油の確保に集約されていく。そして11月初頭に提出されたあるデータによって、最終的な決着がついてしまうのだ。

そのデータとは、開戦後の石油保有量を予測した数字だった。要は、「開戦しても石油が確保できる」という根拠である。

この数字を提出したのは、当時の企画院総裁・鈴木貞一氏。

企画院とは、各省庁や陸海軍の間を調整し、総合的に国策を検討するために発足した機関であるが、実際は戦争のための物資動員計画本部といった役割を担っていた。

もうやることに決まっていたようなものだった

『昭和16年夏の敗戦』の著者、猪瀬直樹氏は直接この鈴木氏にインタビューを行っている。

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「とにかく、僕は憂鬱だったんだよ。やるかやらんかといえば、もうやることに決まっていたようなものだった。やるためにつじつまを合わせるようになっていたんだ」

――「やる」「やらん」ともめている時に、やる気がない人が、なぜ「やれる」という数字を出したのか。

「企画院総裁としては数字を出さなければならん」

――「客観的」でない数字でもか。

「企画院はただデータを出して、物的資源はこのような状態になっている、あとは陸海軍の判断に任す、というわけで、やったほうがいいとか、やらんほうがいいとかはいえない。みんなが判断できるようにデータを出しただけなんだ」

――質問の答えになっていないと思うが、そのデータに問題はなかったか、と訊いているのです。

「そう、そう、問題なんだよ。海軍は一年たてば石油がなくなるので戦はできなくなるが、いまのうちなら勝てる、とほのめかすんだな。だったらいまやるのも仕方ない、とみんなが思い始めていた。そういうムードで企画院に資料を出せ、そういうわけなんだな」

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「データより空気」

数字というものは客観的に見えるが、その数字を作るのはあくまで人間である。

鈴木氏の出した数字は「客観的」ではあったが、その見せ方は「空気」を読んで演出されていた。そんなまやかしのデータにすがる形で、日米開戦は決定的となった。

そのとき、「総力戦研究所」の出したシミュレーションを思い出した者はいただろうか。

もしかしたら、いたかもしれない。しかし、閣僚たちが集まるなか、30代の若手が机上で積み上げた議論を持ち出して「できない」などと言える雰囲気ではなかったのではないか。

求められていたのは「開戦できる」という結論と、それを支える数字だけだった。

「データより空気」、まさに現代の日本でもよく目にする過ちが、日本最大の悲劇を招く結果となったのである。

ちなみに、このインタビューが行われたのは、鈴木氏が93歳のときである。対する猪瀬氏は当時35歳。

鈴木氏の耳が遠いため、質問はすべて画用紙に書かれたが、鈴木氏の記憶力と分析力は目をみはるものがあったという。

41年前の記憶をはさんで相対する、戦前生まれと戦後生まれの二人。なんとも印象的なこのインタビューの詳細は、ぜひ本書を読んでほしい。

日本の敗戦は過去の話ではない

なお『昭和16年夏の敗戦』が単行本として発売されたのは1983年のことである。

それ以来、文庫化を経ながら、日本的意志決定の欠陥を指摘する名著として、折りにふれ話題になってきた。

2020年以降、新型コロナウイルス流行の衝撃が世界を覆っている。

本書の「新版あとがき」で著者は、日本におけるコロナウイルス対策についても、戦前と変わらぬ日本的な意思決定がなされていると指摘している。

かつての敗戦は、決して過去の話ではない。本当の意味で歴史に学ぶことができなければ、私たちの「敗戦」は終わらないのではないだろうか。

<前編はコチラ>

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