日本最高齢88歳のジャズ・シンガー齋藤悌子「夫を亡くし、音楽から離れて15年。喫茶店でジャスを聞いて自然に体が動き『あぁ。また歌わなきゃ』と」
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【写真】娘の営むカフェレストランでジャズを演奏する悌子さん夫妻
故郷・沖縄を遠く離れて
毎日のように顔を合わせていたバンドマスターは、仕事では厳しかったですが、ラブレターをたくさん送ってくれました。25歳の時、彼と結婚することに。彼は千葉の出身でしたので、内地から親御さんや身内の方が来てくれました。
それから4、5年経ち、夫の実家から「そろそろ帰ってきてくれないか」と連絡があり、千葉に引っ越すことになります。私にしてみれば、生まれて初めて沖縄を出て、本土に渡るわけです。
夫もそんな私を気遣ってくれたんでしょうね。まず鹿児島に船で渡り、そこでスポーツカーを買って、本土縦断の旅を始めました。見るものすべてが沖縄と違うので、珍しくてずっとキョロキョロ。
でも、関東地方が近づくにつれて、私は無口になっていきました。千葉では舅姑、小姑2人と同居。歌以外何もできない女に《嫁》が務まるだろうかと、不安になったんです。
ある日、夫が「次の宿を最後にしよう。早起きして、そのまま千葉に行くよ」。夜、宿に着いてすぐ休み、翌朝起きたら、夫が「いい天気だ。来てごらん、テイコ」と、カーテンをバーッと開けた。
そうしたら目の前に、大きな大きな富士山が……。もう、びっくり! 夫は私が驚く姿が見たくて、その部屋を選んでくれたんですね。それも彼のやさしさです。
千葉に着いたら、「現実」が待っていました。それまでぬか漬けなんてしたことないのに、毎日、混ぜさせられるし(笑)。やがて長男、長女が誕生。子どもが小さいうちは、音楽から遠ざかっていました。
ギタリストの夫は、千葉のクラブやホテルなどを回って仕事をしていました。でもやっぱりボーカルが必要だから、また歌わないか、と。姑に相談したら、「子どもたちは見ているから、おやんなさい」。普通、「子どもが小さいのに夜の仕事なんて、とんでもない」と言いそうなものですよね。でも、許してくれた。本当にありがたかったです。
子どもたちが小学生になると、敷地内のアパートに住んでいた千葉大学の女子学生が、夜、子どもたちを見てくれました。まわりのみんなに支えてもらって、歌を続けることができたのです。
止まっていた時計が動き出した
私たちの仕事は夜も遅いし、夫は子どもたちと接する時間が少ないのが寂しかったんでしょうね。夏は毎年1ヵ月間、子ども2人を連れて石垣島へ行き、自給自足のキャンプ生活を送っていました。
石垣島に魅せられた娘は、21歳の時に車に荷物を積んでポンと移住し、1年後にカフェレストランをオープン。私たち夫婦も両親を見送った後、石垣島に移住することにしました。そして毎週水曜日の夜、娘の店でライブをするようになったんです。
それから5年くらい経った頃、夫の体調が悪くなり――那覇の病院に入院し、末期の肝臓がんだとわかりました。若い頃に鼻の手術をした際、輸血によってB型肝炎ウイルスのキャリアになっていたようです。
医師からの電話で、「石垣にお帰りになるんだったら急がないと、飛行機に乗れなくなりますよ」と言われ、すぐに迎えに行きました。島内の病院に入院したものの、あっという間に逝ってしまった。私が59歳の時です。
それ以来、私は音楽を一切、受けつけなくなりました。ラジオから音楽が聞こえてきただけで、夫を思い出してつらくなり、スイッチを切ってしまう。まさに火が消えたような日々を送っていました。
そんな生活が15年くらい続いたある日、買い物先で喫茶店に入ってコーヒーを飲んでいたら、BGMでジャズがかかったんです。フルバンドで、本当に素敵なスウィング・ナンバー。
聞いているうちに自然に体が動いて、「あぁ。また歌わなきゃ」と天啓を受けたような気持ちになって。それからは夢中でしたね。歌える場を見つけては、歌うようになりました。
そうこうしているうちに、思いがけず、レコーディングをしないか、という話をいただいたんです。それが2年前。石垣島に「すけあくろ」という日本最南端のジャズ・バーがあって、世界中からいろいろなジャズ・ミュージシャンが訪れます。そこのオーナーでコントラバス奏者でもある方が、動いてくださったんです。
そしてなんと、世界的なジャズ・ピアニストのデビッド・マシューズさんがピアノを弾いてくれることに。録音は「すけあくろ」で、いつものライブみたいな雰囲気だったので、緊張しませんでした。
デビッドさんは当時80歳、私は86歳。このアルバムが、雑誌『ジャズ批評』の「ジャズオーディオディスク大賞2022」特別賞を受賞。また、琉球放送のラジオ番組『ダニー・ボーイ~齋藤悌子、ジャズと生きる~』が、ギャラクシー賞ラジオ部門大賞に選ばれました。
さらに『徹子の部屋』からも声がかかって。徹子さんとお話しできるなんて思いもしませんから、夢のような時間でしたねえ。
目標は97歳まで歌い続けること
CDを発売したおかげで、疎遠になっていた知人や親戚とも再会できました。なかでも嬉しかったのが、兄とのエピソードです。
4歳上の兄は、沖縄本島で牧師をしていました。本土復帰前の1966年、米軍政下の沖縄を統括する高等弁務官の就任式で祝福の祈りを捧げるよう依頼された兄は、「(彼が)最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、切に祈ります」と、祈りの言葉を述べたそうです。
この時代に米軍の最高権力者の前でそんなことを言うなんて、ある意味とんでもないこと。そんな兄ですから、基地で歌っていた妹に対して、複雑な気持ちを抱いていたのではないでしょうか。兄は私の歌を一度も聞いたことがなかったんです。
その兄が、一昨年那覇で行ったCD発売記念ライブに、義姉と一緒に来てくれて……私が歌い終えると、立ち上がって大勢の観客の前で、いきなりハグしてきたんです。本当にびっくりしました。
兄はきっと、私が「ダニー・ボーイ」に込めた思いを理解してくれたのでしょう。どこの国の人であれ、戦争に行くというのが、どれほどむごいことなのか――。
ちなみに兄は実子のほか、ベトナム孤児を3名と、米兵と沖縄の女性の間に生まれた子どもを、わが子として育てました。
昨年5月、賛美歌で平和を訴える「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」に兄と一緒に参加し、ともに歌ったのです。こんな日が来るなんて、ほんと、人生って何が起きるかわからないですね。
目標は、97歳まで歌うこと。沖縄では97歳で心が子どもに返ると言われており、風車を飾り付けたオープンカーで集落を巡る「カジマヤー」というお祝いをするんです。それまではなんとか、がんばりたいわね。
07/29 12:31
婦人公論.jp