連載開始から約半世紀『はだしのゲン』で夫が伝えたかったこと。今年も8月6日のとうろう流しで歌う「広島 愛の川」を聞きに広島へ

中沢啓治『はだしのゲン』広島に原爆が投下された直後のシーン

広島市内に原爆が投下された直後、家族のいる自宅に走るゲン(中沢啓治『はだしのゲン』第1巻[中公文庫]より)
〈発売中の『婦人公論』9月号から記事を先出し!〉
広島での原爆体験をもとに、中沢啓治さん(1939~2012年)が描いた漫画『はだしのゲン』。被爆体験を語る人がまだ少なかった51年前に発表されるや社会に衝撃を与え、ベストセラーに。今も日本のみならず、世界中で読まれています。作者はどんな思いでこの作品を描いたのか。啓治さんの没後12年を迎えた広島で、妻のミサヨさんに聞きました(構成=篠藤ゆり 撮影=大島雅紀)

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【写真】若い頃の中沢啓治さんと、アシスタントをするミサヨさん

忘れてはいけない怒りと悲しみ

ここ数年は、8月6日の平和記念式典をはさんで、7月、8月を広島で過ごしています。私は広島県出身なので、こちらには姉や友人もいますし、夫の描いた『はだしのゲン』を通してご縁が生まれた方も大勢いらっしゃるので、ここに来ると落ち着くのです。

夫もよく言っていましたよ。「やっぱり広島がホッとする」って。夫の生前は埼玉の自宅と広島を行ったり来たりしていましたが、もう私も歳ですし、最近は広島に来るのはほぼ年に1回にしています。

夫は晩年、「広島 愛の川」という詩を書きました。この詩に作曲家・山本加津彦さんが曲をつけてくださって歌になり、毎年8月6日のとうろう流しの会場で、子どもから大人まで大勢の方々が歌ってくださるんです。それを間近で見たいというのも、広島に来る理由の一つですね。

瀬戸内海を見渡せる小高い丘にある広島平和霊園に、お墓参りにも行きます。夫の墓碑には、「人類にとって最高の宝は平和です はだしのゲン 中沢啓治」と刻まれています。今もお参りしてくださる読者の方がいるようで、本当にありがたいです。

『はだしのゲン』作者・中沢啓治さんの妻ミサヨさん

『はだしのゲン』作者・中沢啓治さんの妻ミサヨさん(撮影:大島雅紀)

6歳で被爆した自分の経験をベースにした『はだしのゲン』の連載が始まったのは1973年、単行本化されたのは75年です。50年以上経っているのに多くの人に読んでもらえて、夫も喜んでいると思います。

『はだしのゲン』を描き始めた頃は、被爆体験を語る人は少なかったんです。被爆者への偏見や差別があって、縁談にもさしつかえるので、多くの方が口をつぐんだ。

今でも、「親は話してくれなかった」とよく聞きます。私も結婚当初は、夫の口から被爆体験を聞いたことはありませんでした。

私自身は呉市の小さな島で生まれ育ち、原爆が投下された時はまだ3歳だったので、原爆のことは全然知りませんでした。

あのキノコ雲の下で、何が起こっていたのか。人々はどんな目にあい、死んでいったのか。あるいは、それからの日々をどう生きていったのか。

広島県で生まれた私でさえ、『はだしのゲン』を読むまでは、それを知らなかったのです。

中沢啓治『はだしのゲン』姉、弟を助け出せずに苦悶するゲンと母

家屋の下敷きになった父、姉、弟を助け出せず苦悶するゲンと母(中沢啓治『はだしのゲン』第1巻[中公文庫]より)

漫画家と結婚し仕事を手伝うように

知り合った時、夫はすでに東京で漫画家になっていました。彼が広島に帰省した際、飲み会みたいなものが開かれて、私にも声がかかったんです。

話がとても面白くてねぇ。全員の分をご馳走してくださったのでお礼状を書いたら、忘れた頃に返事があり、「また帰省するんだけど会いませんか」と。会ったら、なんか惹かれるものがあったのね。知り合って半年ほどで結婚しました。

私、漫画家がどんな仕事で、どんな生活をしているか、まったく知らなくて。新婚生活は、東京の6畳一間のアパートでスタート。

当時夫は、月の半分はほかの漫画家のアシスタントをつとめ、残りの時間で自分の作品を描いていました。夜遅くまで起きて、わら半紙にネーム(コマ割りや台詞、人物などをおおまかに描いたもの)を描いて検討して、それから本番の紙に鉛筆で写すんです。それを今度はペンで描いていく。

真っ白い紙にペンをスッ、スッと走らせると、絵が現れてくるんです。初めて見ますから、まあ驚きましたし、感動しましたね。その様子をそばでじっと見ていると、面白くてあっという間に時間が経ってしまいます。

そのうち、「ベタ(黒一色に塗ること)を手伝ってみないか」と言われて、やるようになって。ヒマだから徐々に線や点などのペンタッチの練習をしているうちに手伝うのが楽しくなり、いつの間にかアシスタントをするようになっていたんです。

部屋には、白土三平さんの漫画がずらーっと並んでいました。ある日、手に取ってみたら、人物が生きているように見えた。「わぁ~っ、木も景色も全部が動いてる! 映画を見てるみたい」と見惚れてしまって。

夫に「白土三平の漫画、すごいねぇ」と言ったら、「そりゃぁ、すごいよ。オレも好きだから」。私が「この草、生きてるみたい」と言うと、「生きてるだろう」。そんなことを話しながら、ペンの使い方を教えてくれたりしました。

そのうち完全に独立して、週刊誌の連載で忙しい時だけアシスタントに来てもらうようになりましたが、私も家事をしながら手伝っていました。

子どもは娘が一人います。でも私は教育ママじゃないから、ほったらかし(笑)。娘も、家に帰るとカバンを置いてバーッと遊びに行くような、まさにガキンコという感じの子でした。

後編につづく

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