ディジュリドゥ奏者・画家GOMA「交通事故で脳に障害、記憶を失っても音楽活動は諦めなかった。意識が戻る時に見てる〈ひかりの世界〉を描かずにはいられない」

「点を打っていると頭の中が整理され、物事の時系列などもはっきりしてくる。僕はあの日からずっと、描かずにはいられない衝動に駆られ続けているんです」(撮影:大河内禎)
2021年には「東京パラリンピック」の開会式で演奏するなど、アボリジニの伝統楽器ディジュリドゥの日本における第一人者として活躍するGOMAさん。15年前から描き始めた「点描画」が、国内外の注目を集めています(構成=篠藤ゆり 撮影=大河内禎)

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【写真】2008年、オーストラリアのアーネムランドで。ディジュリドゥは、白アリが芯を食べて空洞になったユーカリの木を使って作る

本場のコンテストで初受賞を果たして

僕は現在、ディジュリドゥ奏者、そして画家として活動しています。点描画は、2009年に交通事故で脳を数ヵ所損傷したことで高次脳機能障害となり、そこから描き始めました。それまで、絵など描いたことはなかったのですが――。

ディジュリドゥはオーストラリアの先住民族アボリジニが儀式などに使う伝統楽器で、世界最古の管楽器とも言われているもの。出会ったのは1994年、21歳の時。大阪のダンススタジオで見かけ、「面白そうやな」と興味を持ちました。

ディジュリドゥを演奏するには、循環呼吸といって、絶え間なく鼻から空気を吸い、口の中に溜まる空気を吐き出し続けて音を出す必要があります。難しい奏法だと言われているけれど、試しにやってみたらなぜかすぐにできてしまった。

同時に、ユーカリの木でできた楽器を口に当てると、なんともいえない気持ちよさを感じて。直感的に「この楽器をやってみたい」と思い、独学で練習することにしたのです。

その頃の日本にはディジュリドゥに関する情報はほとんどなく、古本屋でオーストラリアの本や雑誌を探しては、広告を手掛かりに現地のレコード店に手紙を書いて、CDを送ってもらうしか知識を得る方法はありませんでした。これでは埒があかず、本場で修業するしかないと、98年にオーストラリアのダーウィンへ向かうことに。

ダーウィンにはディジュリドゥの専門店があり、毎日通ってオーナーと話しているうちに働かせてもらえることになりました。とにかく初めて聴いた本場の演奏は衝撃的で。

そもそも大自然の中で奏でるものだし、人々の魂をかき立て、悪いものを退散させたりするために儀式で吹くものだから、西洋の音楽の概念に当てはまらない。独学でやってきたものとはまったく違い、一からやり直すしかないと決心しました。

『茶色っぽい富士山』2011年

そんな時アボリジニの友人に、ダーウィンから500キロほど離れた彼の故郷へ行こうと誘われたのです。ディジュリドゥの聖地であるアーネムランドというその地では、ビーチに寝泊まりしながら、楽器の材料集めを手伝ったり、演奏を習ったりして。

ディジュリドゥは、白アリが芯を食べて空洞になったユーカリの木を使って作るのですが、気温が40℃を超えるなか、切ったユーカリを束ねて担いで運ぶのはきつかった。(笑)

2~3ヵ月の滞在中、アーネムランドで開かれるディジュリドゥのコンペティションに出てみないかと声をかけられまして。出場者の9割がアボリジニというなかで、なんと僕が準優勝。外国人としては初受賞だったようで、みんな驚いていましたね。

オーストラリアに1年ほど滞在した後は、妻と渡英。イギリスの音楽が好きだったということもあるけれど、オーストラリアがイギリスの植民地だったので歴史的なことも知りたかったし、ヨーロッパではディジュリドゥの認知度が高く、音楽活動の足掛かりになるだろうと思ったのです。

ちょうどこの頃、ジャミロクワイというミュージシャンが楽曲にディジュリドゥを取り入れたことで、世界的に知られる楽器になりました。2002年に帰国した時には、時代の後押しもあり、野外フェスに呼ばれたり、自分の音楽レーベルを作って全国ツアーをしたり。こうして音楽活動で生活できるようになっていったのです。

事故後、保険会社の人の勧めで日記をつけ始めた。「どうやって家族を養っていけばいいのだろうか?」など、葛藤が綴られている。左上は、娘が書いた「がんばれ」の文字

交通事故の後遺症で記憶障害に

娘も生まれ、充実した日々を送っていた09年11月26日。首都高速道路を車で走行中、後方から追突される事故に遭いました。意識を失い、目が覚めると病院のベッドの上。追突された時に全身に激痛が走ったことは確かだけど、それ以外はほとんど覚えていません。

妻が言うには、肩甲骨あたりに違和感を覚えていたようですが、翌日には退院することに。でも、言葉がうまくしゃべれないし、体にも麻痺が出て思うように動かせない、それに記憶がはっきりしない。事故以前のことを思い出せないだけではなく、5分前の記憶も消えていく。

たとえば用事があって出かけたはずなのに、突然脳がストップして、どこに行こうとしているのか、今どこにいるのかもわからなくなる。人に「この間も会ったよ」と言われても思い出せない。こうしたことが重なると、不安と焦りばかりが募ります。

あちこち病院を受診するも、原因は特定されませんでした。「精神科にでも行ってみますか?」と言われたこともあり、頭がどうにかなってしまったのではないかと、ただ恐怖でした。時々、妻や4歳だった娘に暴言を吐いたり、ものを壁に投げつけたりもしていたようです。

でも僕はまったく覚えておらず、意識が戻ってから穴の空いた壁を見てはショックを受け、落ち込んでしまうことの繰り返し。自分が何をするかわからないと思うと恐ろしく、生きていてもしょうがないと思い詰めるようになっていったのです。

何軒目かの病院で、ようやく「高次脳機能障害」と診断を受けました。脳梗塞などの脳血管障害や交通事故で脳外傷を負うなどした際に脳が損傷すると起こるもので、記憶を失う、集中力がなくなる、感情が制御できなくなる、失語などさまざまな障害が出るそうです。

事故から1年ほど経った頃、高性能のMRIがある岐阜の病院で検査を受け、思っていたよりも脳のあちこちに傷が散らばっていることが判明。そして、傷ついた細胞は二度と戻ることはないと聞かされ、思わずその場で泣き崩れてしまいました。

『ひかりの道』2009年
絵を描き始めた初期の作品
※展覧会に初期の作品は展示されません

退院した翌日に、娘の絵の具で描き始めた

事故直後は自分がディジュリドゥ奏者であることも忘れていたのですが、お医者さんから、「記憶には脳が覚えている記憶と、体が覚えている記憶の2種類がある。体の記憶は少々の傷くらいでは影響を受けないから、リハビリを頑張りましょう」と言われて。ほんまかいな、と思って吹いてみたら、循環呼吸がすぐにできた。すごいですよね、体の記憶って。

そこで、事故後7ヵ月でバンドの練習を始め、11年には音楽活動を再開。けれど、最初の頃は何をやっているのかよくわかっていない部分もあった気がします。みんなに背中を押されステージに上がって、とにかく吹いて帰ってくる、みたいな感じで。

でも、お客さんが楽しんでいる姿を見ることは、リハビリをするうえで活力になった。作曲して曲を覚えられるようになるには、8年くらいかかりましたけど。地道に練習を重ね、体に覚えさせるしかない。これは、今も同じ。

絵を描き始めたのは、退院した翌日のこと。突然「絵の具ある?」と妻に尋ね、渡された娘の絵の具を使ってひたすら点を打ち始めたのだとか。なぜ絵を描き出したのか、なぜ点描なのかはいまだにわかりません。

ただ、点を打っていると頭の中が整理され、物事の時系列などもはっきりしてくる。僕はあの日からずっと、描かずにはいられない衝動に駆られ続けているんです。

アクリルガッシュを使って点を打っていく。盛り上がった点の集合体は、見る角度によって表情を変える

『くじらがいた海』2011年

事故から15年経つ今も、脳の損傷部分に電気が流れ、痙攣を起こすことで意識を失って、静止状態になったり、倒れたりすることがあります。ステージ上で発作に見舞われたこともあるのですが、回復にかかる時間は、短い時で10分、15分。時には1週間くらいかかることも。

そうして意識が戻る時、必ずひかりの中を通ってこっちの世界に帰ってくるんです。脳の研究をしている方に聞くと、臨死体験をした人は性別や人種に関係なく、このひかりの話をする人が多いのだとか。

最初はただ点を打っているだけで、絵とは言えないものでした。でもきっと、消えていってしまう記憶の代わりに何かを残そうと、無意識に行っていたのでしょうね。

今は、奥のほうは真っ白な強いひかりで、こっちの世界に近づくにつれてだんだんと色がついてくる、そんな、意識が戻る時に僕が見ている《ひかりの世界》を残しておきたいという気持ちで描いています。これは、この脳を持つ僕だけが描ける世界ですから。

左から『ひかり(黒)』2023年、『ひかり(青)』2022年、『ひかり(白にピンク)』2021年

「実はそれまで、いつか絵が描けなくなってしまうんじゃないかと怯えていたのです」

今の自分を否定せず生きていきたい

18年にNHK Eテレで放映されたドキュメンタリー『Reborn~再生を描く~』の制作中、アメリカで専門医の診察を受け、後天性サヴァン症候群と診断されました。外的要因で脳を損傷して意識が消失し、そこから意識が再起動した人にのみ起こる症例で、僕は正式に診断された60人目だそう。

そして後天的に花開いた能力は、実は生まれながらに持っていたものなのだとか。成長過程で怒られたり否定されたりするなかで閉じ込められていたものが、脳が傷ついたことで蓋が開くケースがあるそうです。

サヴァン症候群の権威である先生から、「新たにもらったギフトが消えた人はいない」と聞いて、少しほっとしました。

『水富士』2016年

実はそれまで、いつか絵が描けなくなってしまうんじゃないかと怯えていたのです。事故のおかげで絵を描くようになり、自分の人生が映画やテレビ番組、本になるなど、いろんな出会いをもたらしてくれたから。だからこそ、アメリカでの経験がきっかけになり、本当の意味で前向きになれた。

後遺症は今も続いています。でも、諦めたり、今の自分を否定したりしていては先に進めません。これからは音楽も絵も生き方も、すべてを融合させて人生を歩んでいきたいですね。

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