「食料はどうかき集めても足りない」台風で遭難→豪雨で夜を明かし、暖かそうなテントの幻覚まで…あり得ない惨劇の“顛末”

「俺を置いて先に行ってくれ」「眠るな、眠るなよ」突然ドドドーッと地響きが…台風で遭難→足をケガした大学生の“運命”〉から続く

 1982年8月1日、南アルプスの両俣小屋を襲った台風10号。この日、山小屋には41人の登山者がいた。前日から降り続けた雨は強くなる一方で、小屋番の桂木優氏は不安に駆り立てられる。テントサイトの登山者を小屋に避難させるも、夜半に濁流が小屋の目前にまで迫ってきた。

 這う這うの体で裏山へ避難するも、冷たい豪雨は容赦なく体温をうばっていく。台風による気象遭難の惨劇を描いた『41人の嵐』(ヤマケイ文庫)より一部を抜粋して紹介する。(全4回の4回目/#1#2#3から続く)

【画像】山小屋には41人の登山者が…夜中に濁流が小屋の目前にまで迫った後の様子

(人名、学校名などを一部イニシャルで表記しています)

◆ ◆ ◆

暖かそうなテントが空中に…

「ひどいことになってしまった。こんな事故に遭ってしまって、クラブを存続させられるだろうか。クラブ活動が停止させられるかもしれない。それどころか、学校をやめなきゃならないかもしれないな。また受験のしなおしかあ」

 ほとんどの者がそう思っていた。

 突然、テントが見えた。人の声が聞こえる。……幻覚だった。7人中3人が幻覚を見たのだった。空中にあかりを灯しているテントが見えた。暖かそうなテントだ。テントの色こそ違っているが、3人は同様に、空中に、暖かそうなテントを見ていた。人の声がする。

「あれは幻覚だ。幻覚だぞ。しっかりするんだ。あんなところにテントがあるわけがない。しっかりしろ、幻覚だぞ」

 自分を叱咤する。

 その時は話さなかったが、一息ついた時に話してみると、同様の幻覚を3人が見ていたことがわかったのだった。

写真はイメージ ©iStock.com

 危ないところであった。

 極寒は続く。

「眠るな。体を動かせ」とお互いを励まし続けたが、疲労の度が強くなってきた。眠り出す者も出てきたが、もはやしかたがなかった。

 ようやく空が白み始めた。午前4時半だった。

 薄明るくなってきたことで、場所の移動を始めた。雨はやんだようだった。野呂川越まで移った。

 野呂川越には幕営できる平地がある。両俣に戻ってテントを持って来て張ることができる。

 だいぶ明るくなり、道もはっきり見えてきた。

 7人は両俣への道を下った。

 一晩中寒さに震えていたために、頭の奥からボーとしてきている。フラフラであった。

 鍛えに鍛えたワンダラーたちであっても、台風の中をTシャツと雨ガッパだけで過ごすということはかなりな消耗であった。

 午前5時30分、両俣のテント場に着いた。

 昨日とはまるで違ったテント場の様子であった。二度も張り直して、そのたびに高台に上げた自分たちのテントは、3、4人用テントは無事であったが、5、6人用テントは無惨にも土石に埋まってしまっていて、ほんの少しだけ土石の中から頭をのぞかせている。

食料はどうかき集めても足りない

 荷物は、3、4人用テントの中に置いておいた6人分のザックは無事であったが、テントの入り口付近に置いておいた食料缶が2缶とも流されてしまっていた。

 食料は、どうかき集めてみても米少々、チョコレート4枚、クラッカー1パック、ボンカレー7食分しかない。暗澹たる気持ちになった。

 テントは、3、4人用テントしかない。びしょ濡れのシュラフを持って上がっても、それで寝られるわけもない。水を吸って重いし、シュラフは捨てることにした。

 すべてが水を吸って重いので、残った荷物を野呂川越まで上げるのに2往復した。

 3、4人用テントを野呂川越に張ってすぐに寝た。服を着込み、うち重なって寝た。一夜の疲れがドッと出て、すぐに眠りについた。

 目醒めると雨はすっかり上がっており、空も十分明るくなっていた。

 テントの外に出て背のびをしたりして、さてこれからどうするかなどと話し合っていた時であった。

 登山道を登ってくる足音がした。人間であった。頭にハチマキをし、髪の毛はボウボウで、長靴をはいた女の人が登ってきた。

 漂流した無人島で、いきなり原住民に出会ったような感じだった。ぎょっとした。

 小屋番だった。

「いやー、あなた方が両俣に来てるとは知らなかったから、テントが埋まってるのを見てびっくりした。それで来てみた」という。

 小屋に届けていなかったという負い目があって、昨日の事情をすぐに説明した。サイト料を払いに小屋に行ったのだが誰もいなかったこと、夜中、小屋に避難しようと思って行ったがまたもや誰もいなかったことなどを一気に話した。

 小屋番は、T大の安否とD大の行方、安否がわかって一安心し、薄日の差す山中を帰った。

 埋まったテントをそのままにしておくのも人騒がせだし、いつ撤収に来られるかわからないので、W君、Y君、E君、T君の4人で両俣まで下った。小屋に寄り、古鍋、古やかんに清水を汲み、野呂川越に戻った。

 残っていた米全部を炊いて、飯だけで食べた。高地でうまく炊けず、味がついていないのだが腹は満ちた。

 明日朝は、早く起きて両俣まで鍋とやかんを返しに下らねばならないと思いながら眠りについた。小さなテントに7人の男が寝るのだから、窮屈この上ないが、しかたないことであった。

倒木がひどい、ケガをしたY君の足は…

 翌8月3日、午前2時に目が醒めたが外はどしゃ降りなのでまた眠った。3時に起き、ボンカレーをなめた。クラッカーも3、4枚ずつ配給があった。

 どしゃ降りが続いているので、小屋へ古鍋とやかんを返しに行くことを断念した。

 午前6時ころ、雨は小降りになったので仙丈ヶ岳へ向けて出発することになった。

 午前6時15分。野呂川越を出発した。倒木がひどい。D大の誰かが木の下敷きになっているのではないかとびくびくしながら進んだ。

 Y君の足も心配だったが、空荷なのでなんとか歩けるようだ。

 午前8時30分。伊那荒倉(いなあらくら)岳に着いた。風は強かったが、樹林帯の中で木の雫に濡れるのが嫌だったので、あえて伊那荒倉岳のピークで一本をとった(小休止した)。

 午前8時50分に出発し、10時30分、大仙丈ヶ岳付近で休憩し、チョコレートを半分ずつ食べた。風が激しく、時々息もつけないほどであったが、耐えるしかなかった。

「俺たちゃあ、何のために両俣に行ったんだろうなあ。ついおととい、この道通ったんだよなあ」

「両俣ピストンしたパーティーなんてそうざらにあるもんじゃないなあ」

 荷物もだいぶ失い、ビバークの時には幻覚を見るほどの事故に遭ったにもかかわらず、にえくり返るような悔しさというものはなかった。ただただ、大自然の猛威の中で、不思議なくらい素直な気持ちを味わっていた。

生きているのが不思議な気がしてきた

 午前10時40分出発し、午前11時30分、仙丈ヶ岳を通過した。

 もう少しだ。もう少しで長衛(ちょうえい)荘に着く。小屋に着けば飯が食えるぞ。そのことだけが励みであった。

 ガスが晴れてきて、仙丈ヶ岳の大カールも見えた。小屋が一つポツンと見えたが、周囲に人影は見えない。雪渓はだいぶえぐり取られていた。荒涼とした景色であった。

 小仙丈ヶ岳を通過し、午後2時、長衛荘に着いた。

 8月4日は、午前7時20分、小屋を出発し、荒れ果てた林道を通って戸台まで歩いた。そこからタクシーで伊那市まで出たのだが、途中の戸台口(とだいぐち)では、今回の台風で大きくえぐられた仙流(せんりゅう)荘と、仙流荘前の道路や広場を見た。すさまじいものであった。人的被害はなかったと聞いて安堵したが、今さらながらに台風10号の暴れようを知った。美和(みわ)湖でも驚いた。美和ダムの人造湖一面が流木で埋められていた。

 自分たちがこうして生きているのが不思議な気がしてきた。

 ようやく伊那駅に着き、午後5時30分、甲府駅に着いた。そこで北岳の肩ノ小屋で台風10号に遭遇した女子パーティーと出会い、お互いの無事を喜び合った。

(桂木 優/Webオリジナル(外部転載))

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