【パリ五輪「メダル候補」たちの素顔】フェンシング・江村美咲 父が明かした“金髪変化”した理由「東京五輪後には『燃え尽き症候群』に」
6月24日、クウェートでおこなわれたフェンシングのアジア選手権の女子サーブルで、江村美咲が金メダルを獲得した。父の宏二さんは、「審判判定でしたが、最後は一本勝負を制しました」と嬉しそうに話す。来るパリ五輪に、フェンシング日本代表として出場する美咲。その生い立ちと強さの秘密を、宏二さんに聞いた。
宏二さんは、現在は指導者だが、フルーレの日本代表としてソウル五輪に出場し、サーブルでも世界選手権に出場している。母親の孝枝さんは、エペで世界選手権出場の経験を持ち、兄の将太朗さんは現在エペの選手で車椅子フェンシングの指導者、弟の凌平さんはサーブルの日本代表として活躍するという“フェンシング一家”だ。宏二さんは幼いころの美咲を懐かしみながら、こう話す。
「私も妻もフェンシングの選手でしたが、強制的に剣を持たせたということは一度もありませんでした。美咲が幼いころは大分県日田市に住んでいて、私は近くの高校の体育館をお借りしてフェンシング教室をやっていました。そこに遊びにきたときに、『ちょっと突いてみるか?』という感じで、遊び程度に『えい、えい!』とやったりする程度だったんです。
ちゃんとユニフォームを着てフェンシングをやり始めたのは、小学校3年生のころ。当時はフルーレという種目をやっていたんですが、同学年に強いコもいて、試合に出ても全然勝てなかった。やっぱり、試合に勝てないとおもしろくないですよね」
当時の美咲は公園の雲梯や、棒を登ったり激しい動きの遊具が大好き。自転車も補助輪なしで一発で乗り、兄弟と一緒に元気に外で遊び回っていたという。彼女の性格を「自分が好きなことは、徹底してうまくなるまでやるコ」と父は評すが、「たぶんフェンシングは『好きなこと』の選択肢にはなかったと思いますよ」という。あまりフェンシングに興味を持っていなかった美咲に、ある転機が訪れたのは2009年のことだった。
宏二さんは2008年の北京五輪で日本代表の監督を務め、日本フェンシング界初となる太田雄貴の銀メダルをもたらした。2012年のロンドン五輪に向けて日本代表をさらに強化するということで、宏二さんにJOCナショナルコーチのオファーが届く。2009年、一家は東京へ住まいを移した。
「美咲は東京に来てからいろいろな試合に出ましたが、やっぱり勝てない。エペも少しやりましたが、『おもしろくない』と。そんなある日、美咲が私の職場に遊びに来たんです。翌日はサーブルの試合をやる予定で、その優勝賞品の、アニメ『ウサビッチ』のジグソーパズルが職場に置いてあった。美咲はアニメのファンだったので、それが欲しくて欲しくて。
なので『欲しいなら明日の試合に出なきゃダメだよ』と言って、美咲はサーブルのレッスンをして欲しいと私にお願いしてきたので、少しサーブルの指導をしたんです。それで出場したら、なんと優勝。きっかけは『ウサビッチ』だったんですが、これが美咲のはじめての成功体験でした。フェンシングのサーブルを始めたのは、この時がきっかけだったんです」
もちろん、勝てたことも楽しかったはずだが、宏二さんはこう話す。
「フルーレとエペは剣先にスイッチが付いているのですごく繊細。でもサーブルは“斬る”動きで大胆なんです。細かいよりもダイナミックにできたほうが、美咲には合っていたのかもしれません」
しかし、サーブル転向後にも新たな壁が立ちはだかる。同学年の高嶋理紗選手と向江彩伽選手だ。彼女達は初心者だったので最初こそ美咲はふたりに勝っていたが、あっという間に追い抜かれ“3番手”となってしまう。
「中学2年生ぐらいのとき、美咲は一度、挫折しそうになったんです。コーチが厳しくて、朝起きるとお腹が痛くて練習にも行けない。そんな美咲に、妻はこう言いました。『無理しなくていいよ。でも将来、高嶋さんと向江さんがオリンピックとかで活躍しているのを見て、美咲が後悔しないなら辞めてもいいよ』と。美咲は『やっぱりやる』と言って、そこからまた奮起しました。
その頑張りの結果、中学3年生で出場したシニアのアジア選手権で決勝まで進み、U−17世界選手権では日本女子として初めてメダルを獲得。しかも2年連続メダル獲得を成し遂げました。こうした成功体験が積み重なって、今の美咲があるんです」
中学を卒業した美咲はJOCエリートアカデミーの寮に入り、高校は通信制を選んで朝からずっと練習を重ねた。その後高校生であと一歩でリオ五輪の出場を逃す。ついに東京五輪代表に選出されるも、あまりにストイックに取り組む姿を見て、宏二さんはケガするのではと心配になっていた。
「朝は6時に起きて走り、練習を終えて夜は22時には寝ると、まさにフェンシング漬けの生活をしていました。競技のためには完璧主義者だった美咲の性格が、仇になって彼女を追いこんでいきました」
東京五輪では個人13位、団体5位。日本の女子サーブルの成績では最高位だったが、美咲に笑顔はなかった。
「褒めてあげたいのに、本人は『負けた』しか言わない。笑顔もない。東京五輪で金メダルを獲得することだけを目標にストイックすぎるほどやってきたので、東京五輪後はこれ以上、自分が何をしていいのか、わからなくなってしまった。『燃え尽き症候群』になってしまったんです」
そこから2週間ほど、美咲は練習を休み、じっくり自分と向き合う時間を持った。ストイックになりすぎないよう、オンとオフをしっかり取ることも考えた。じつは美咲のトレードマークとなった金髪も、この時の辛い思いから生まれた一つの変化だった。
「気持ちを前向きに明るくするために、金髪に染めたんです。東京五輪の後、美咲は自分でオンとオフを切り替えられるようになりました。今は、休みになれば趣味のカメラを持って出掛けています。
もうひとつ大きな変化は、日本のフェンシング界で初めてプロ選手になったこと。これは美咲が自分で考えて出した答えでした。東京五輪がコロナ禍で無観客試合となってしまい、スポンサーの方々に恩返しができなかったと言っていましたね。そうした思いが美咲の中で強かったので、プロ選手となり支援を続けてもらえないかとお願いしたんです。みなさん、快く理解してくださってサポートを続けてくださっています。美咲は、サポートしてくださる企業に少しでもお役に立てればと、基本的に取材はお受けするようにしています。感謝の気持ちを常に持っている心優しいコなんです」
そんな美咲の強さはどんなところなのだろう。宏二さんは「ダイナミックさと繊細さ」と話す。
「美咲がエリートアカデミーに入ったときの韓国人のリー・ウッチェコーチは、2012年のロンドン五輪で韓国チームを金メダルに導いたコーチ。とにかくスパルタで、根性論で教える方なんですが、そのときにダイナミックな韓国のサーブルを身に着けました。その後に就任したフランス人のジェロームグースコーチは、褒めて伸ばすタイプ。教えるフェンシングは繊細で細かいステップと細かい動きと駆け引き。これがちょうどいい具合にミックスされて、ダイナミックな攻撃と繊細なステップを生み出した。世界からも称賛されるフットワークが彼女と強みだと思います。
フェンシングにそんなに興味を持っていなかった美咲だから、自分が世界的に有名な選手になれるなんて思っていなかっただろうし、きっと何か持っているんですよ(笑)。パリ五輪は大きなプレッシャーになると思いますが、意外と彼女は大舞台で結果を残してきている。自分をコントロールして力を出し切るということは、もう私が言わなくても本人がいちばんわかっていると思います。私は見守るだけですね」
そう優しく話す宏二さんが見守る先には、日本女子初となるサーブルで金メダルを獲得した美咲の姿が見えているのかもしれない。
07/17 12:15
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