ジダンと日本サッカーの関わり。そのとき日本はまだ『世界の外』にいた【ジダン研究前編】

【写真:Getty Images】

●フランスの育成事情とジダン

フランス文化研究者で作家の陣野俊史は10月13日に書籍『ジダン研究』(カンゼン)を上梓した。ジダン論でもない、ジダン伝でもない、あるいはジダンをめぐる小説でもない、研究という最も地味な作業の結果、頁数は816にもおよぶ。本書はジダン自身が饒舌ではないことも手伝って、1990~2000年代の「近代サッカー史」としても読むことができる。著者とともにジダンがプレーしていた時代を振り返る。(聞き手:石沢鉄平)
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――『ジダン研究』は1990~2000年代の「近代サッカー史」としても読むことができると思います。ここでは、本書の解説というよりは、ジダン周辺のトピックを拾い、当時のサッカー界を反芻できれば、と。まず、ジダンがU-15年代だった頃のフランスにおける育成事情はどのようなものだったのでしょう。

「クラブに負んぶに抱っこの状態で、まだ国全体が真面目に育成を考えていなかった時代だったと思います。『プラティニがいれば大丈夫でしょ』と。OM(マルセイユ)なんて外から選手を買ってくるだけで、育成にはまるで力を入れていなかった。育成を重要視していたのはメツ、オセールなどの先進的なクラブくらいだったのではないでしょうか」

――OMは「すぐ近く」にいたジダンをピックアップできず、結局カンヌのスカウトの目に留まり、カンヌの育成組織に入団します。トップ昇格後には、ボロ・プリモラツ(名古屋)、エリック・モンバエルツ(横浜FM)、フランク・デュリックス(名古屋)など、日本でも馴染み深い面々と関わっています。のちに「サン=ドニの悲劇」にも触れますが、日本との関係性も見逃せません。

「それは、当時モナコの監督だったアルセーヌ・ベンゲルの人脈の強さかもしれません。ベンゲルはジダンの獲得は断っていますが……。思えば、フィリップ・トルシエしかり、1990~2000年代の日本サッカーはベンゲルの関係者が中心にいたような気もします」

●「彼の素質はジダンの10分の1程度」

――ジダンはその後、憧れだったOMではなくボルドーに移籍します。当時のOM、特に会長のベルナール・タピは、OMの八百長事件を持ち出すまでもなく、近代サッカー史的に避けては通れない人物です。

「Netflixの『タピ~千の人生を送った男~』を観て気絶しそうになりました(笑)。もう思ったとおりにいい加減。とにかく思いつきの人で、それがまたことごとく当たってしまう。典型的な山師。『ルモンド』紙では『観る価値があるのか』という議論をしていました。スマイル(ジダンの父親)はタピに対して批判的な姿勢でしたが、ジダンはタピのことは嫌いではなかったように思います」

――ボルドーではフランス代表でもチームメイトとなるFWクリストフ・デュガリーとDFビセンテ・リザラズと「ボルドー・トライアングル」を結成します。特にジダンとデュガリーの相思相愛ぶりは本書を通じて初めて知りました。

「馬が合ったのでしょう。レストランを共同経営し、共著も出しているくらいです。ただ、ジダンにとって決してプレーしやすいFWではなかったはず。とにかくジダンはリーグ・アン、代表では相性のいいFWに恵まれなかった。ティエリ・アンリがその典型で、内弁慶のステファヌ・ギバルシュもそうでした。とはいえ、仲間に恵まれたボルドー時代のジダンは幸せだったのではないでしょうか」

――そして、1994年8月にジダンはフランス代表デビューを果たします。当時のフランスは94年ワールドカップの出場権を逃し、監督はジェラール・ウリエからエメ・ジャケに交代していました。陣野さんは当時のフランスをどのように見ていましたか。

「ジャケはチームの中心だったエリック・カントナを切ることを決めていました。ワールドカップを逃したチームは規律がなく、規律が求められつつあった当時のサッカーとは逆行していたように感じます。ダビド・ジノラ、ジャン=ピエール・パパンも代表ではさしたる痕跡を残していない」

「ただ、ジダンが出場したEURO1996も中盤に人材はいても、FWがいない状況。メディアに『ジダンの友人枠としてデュガリーは選ばれている』と皮肉られているくらいでした。また、ジダンと同じポジションにユーリ・ジョルカエフがいましたが、ジダニストからすれば彼の素質はジダンの10分の1程度だと思っていました(笑)」

●ジダンと『レキップ』の関係。ユベントス時代は…

――それでも「中心」をジダンに据えたジャケは1998年のワールドカップでフランスを優勝に導きます。ジャケで印象的なのはサッカーの内容というより、むしろフランスのスポーツ紙『レキップ』との対決で、ジャケの『レキップ』への怨念はすさまじいものがあります。『レキップ』は誰に対しても批判的なメディアなのでしょうか。

「協会と代表に対しては常に批判的な立場を貫いています。決して翼賛的にはならない。カントナを切ろうが切るまいが批判され続けるジャケにしてみれば、『ごちゃごちゃ言わずに黙って見ていろ』と。『レキップ』はディディエ・デシャンに対しても、選手選考などについて批判している。ちなみにジダンと『レキップ』の番記者との関係性は悪くなかったようですが」

――フランスワールドカップはジダンの退場、ロナウドの胃痙攣、ジダンのヘディング2発など、今思えばトピックに事欠かない大会でした。そんな中、準決勝クロアチア戦のリリアン・テュラムの2ゴールに結構な紙幅を割いています。これは意図的ですか。

「あれでも抑えたくらいです。テュラムはすでに10冊以上書籍を出していて、『テュラム研究』で一冊書けてしまうほど(笑)。そのほとんどが人権、教育に関する書籍で、小さい版元から切れ目なく出しています。今はサッカーに関わっていませんが、息子のマルクスとケフランがともにフランス代表というのが面白い」

――ジダンに話を戻すと、ボルドーからユベントスに籍を移し、この頃からいよいよ世界に知れ渡っていく印象があります。ただ、ユベントス時代の描写は少なく、むしろ相棒のアレッサンドロ・デル・ピエロフィリッポ・インザーギを多く語っています。なぜでしょう。

「熱意がなかったんですよ。代表での活動のほうが圧倒的に目立っていたことも関係していますが。ただ、ジダンはユベントスでフィジカルコーチのアントニオ・ピントゥスと出会い、レアル・マドリードの監督時代に彼を重用しています。また、日本で行われたトヨタカップで自身のアイドルだったエンツォ・フランチェスコリと対戦している。それにしても、こちらの熱が入っていない(笑)」

――ユベントス時代には、ドーピング問題もありました。この背景には、試合数の増加による肉体疲労があり、やはりジダン周辺のトピックを辿っていくと、自ずとサッカー界全体の傾向が掴めます。

「裁判での判事とのやり取りがジダンの口下手ぶりを表していますよね。ともに50代で亡くなったジャンルカ・ヴィアッリとシニシャ・ミハイロビッチの死因にドーピングが関与していたと取り沙汰されていますが、推測の域は出ていない。影響力が大きいデシャンあたりが口を開かない限り、この問題は進展を見せないのではないでしょうか」

●「いや、明らかに違うでしょ」

――さて、再び日本のサッカーが登場します。2001年のフランス代表対日本代表の親善試合、いわゆる「サン=ドニの悲劇」は日本でのみ流通しているワードです。この試合を1章の締めに置いたところが、何かニクい感じがするな、と。

「日本発信の『研究』なので、日本人が書いている意味を持たせないと、と思ったんです。当時の日本代表は中田英寿のミドルシュート連発の記憶があるくらいで、やりたいサッカーが伝わってこなかった。試合後に松田直樹氏が『はじめて“世界”を感じた』と話したように、日本はまだ『世界の外』にいた。ただ、ハイデッガーの言葉を借りれば、今や日本は『世界内存在』にいます。FIFAランキング(18位、10月26日現在)からしても、隔世の感があります」

――さらにこの試合の終盤では、クリスティアン・カランブーに対して場内からブーイングが起こっています。私は実を言うと途中でテレビを消したので、そのシーンは観ていません。

「フジテレビの青嶋達也アナウンサーは『カランブー、もっと頑張れ、という声でしょう』と。『いや、明らかに違うでしょ』と(笑)。当時のフランス社会は、カランブーのような、故郷ニューカレドニアの独立問題を背負い、民族的、政治的発言を辞さない選手を疎むようになっていたんです。このような選手が代表でプレーしていたのは彼が最後かもしれない」

「例えばレユニオン出身のディミトリ・パイェなどは、もっと発信してもよかったように思います。母親がアルジェリア系のキリアン・ムバペは、意外と攻撃的な発言が多い気はしますが。とはいえ、カランブーのような選手が選ばれていない現在は、フランス領の島々は牙が抜かれている状態に映ります」

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