《なんで言われへんねん!》笑福亭笑瓶さんがめずらしく激怒した「ダメ出し事件」、愛弟子が初めて明かす師匠の“知られざる素顔”

笑福亭笑助氏と師匠・笑福亭笑瓶さん

 28年前、大阪から上京した19歳の少年は弟子入り志願のため、TBSの駐車場の付近でひたすら出待ちをしていた。次々と出てくる車を隈なく見たが、その姿はない。数時間が経ち、諦めかけたその時、ハイヤーのスモークがかかった窓ガラスをのぞき込むと、黄色い縁メガネの人影が確認できた。『間違いない!』走って追いかけた先の信号で車の窓をノックすると、ゆっくりと窓が開いた──。

【写真】黄色い縁メガネをかける弟子・笑助氏の下積み時代。笑福亭笑瓶さんのゴルフバッグには「めがね兄やん」と書かれたネームプレートが

 タレントの笑福亭笑瓶さん(享年66)と弟子・笑福亭笑助氏が初めて対面した日だった。

 2023年2月22日に急性大動脈解離のため、66歳の若さで天国へと旅立った笑瓶さん。ICUの病室で、涙する笑瓶さんの妻と師匠を看取った笑助氏。生涯、笑瓶さんは弟子を1人しかとらず、その唯一の弟子が笑助氏だった。11月7日だった笑瓶さんの誕生日を区切りに、笑助氏が師匠との日々を振り返った。【前後編の後編。前編を読む

 高校を卒業したばかりの笑助氏は、テレビを通して見る笑瓶さんの雰囲気、空気感、人のよさを感じて、“笑福亭笑瓶に絶対に弟子入りしたい”と強く思ったという。

「実際に、どこに行けば会えるのか考え、テレビの生放送の出待ちをするのが確率高いやろうと。出待ちして師匠を見つけ、『大阪から弟子にしてほしくて来ました』と話したら、『俺、今から仕事で大阪行くんやけどな。一緒に乗るか?』と、東京駅へ向かう車の助手席に乗せてもらいました。『なんで俺なんや? 俺、落語せえへんで』と。『簡単な世界やないからな。じっくり考え』と帰されました」

 弟子にはなれず、故郷の大阪に戻って半年後。1996年9月1日発行の読売新聞に『弟子入り志願思い出し』という見出しの笑瓶さんの記事が載った。

 

《東京のテレビ局から帰ろうとしたタレント、笑福亭笑瓶の元へ先日、弟子入り志願の19歳の若者がやってきた。彼と同じ大阪出身。高速料金をけちって一般道を走り、車に寝泊まりしながら3日がかりで上京していた。「芸人養成所もあるのに『何で俺なんや』と聞くと、『弟子がいないし、一番弟子になればかわいがってもらえる』という》

 笑瓶さんは笑助氏の姿に、若かりし自分を重ね合わせていたようだ。

《笑瓶も16年前、深夜のラジオ番組を終えた師匠の笑福亭鶴瓶を放送局でつかまえ、弟子入り志願したからだ。「あの時のオレの気持ちと同じやな、と思うとうれしくもあり、複雑でした。若者とは翌日も東京駅で会い、自分の体験を聞かせ、『もう一度よく考え、半年後にいらっしゃい』と伝えました」》(注:実際に翌日に会ったのはテレビ局の喫茶室)

 再び大阪のテレビ局で笑瓶さんを出待ちをして、改めて弟子入りを志願。すると、笑瓶さんは「ほな、やってみるか」と、1997年4月に上京が決まった。当時笑助氏20歳、笑瓶さん40歳だった。

「師匠の自宅近くに家賃3万円のアパートを借りて、下積み生活を始めました。朝、師匠の自宅周辺の掃除をして、仕事先の現場までの運転。車降りて楽屋に入るまでカバンを持たせていただいて、着替えを少し手伝ったりもしました。そして本番を見させていただいて、仕事が終わって家に帰るまでの車で、世間話の延長みたいな感じで私のいろいろな話を聞いてくれました」

 しかし、帰りの車中が時には“稽古場”となり、笑瓶さんが激怒することもあったという。

「私が車を運転しているときに、師匠から『どんなネタをやりたいねん?』と聞かれ、漫談をやりたいと伝えたら『やってみい』と。緊張しながら漫談を始めたら後部座席から師匠が『危ない! ほら! そこ! 信号赤や!』と。しゃべることに必死で運転がおろそかになり、よく怒られました。

 長時間ダメ出しを受けている時に『はい、はい』と私が返事をしていたら、『“はい”が陰気や!』『お笑いは“はいっ!”と元気よくいわないかんねん。わかったか。違う! なんで元気よく“はい!”と言われへんねん!』と、よく怒られました」

 弟子に就いてしばらくは、笑瓶さんのことを「師匠」と呼ぶことも禁止されていた。

「弟子に就いてすぐ『師匠とお呼びしていいでしょうか』と尋ねたら、『まだ弟子として取ったわけではないから“笑瓶さん”でいい」と言われました。弟子入りから4カ月後の8月に師匠を迎えに行き、師匠が自宅から出てきたときに『おはようございます』と挨拶をしたら突然、『命名しよう。笑助!』と仰って、そこから『笑助』と呼んでいただけるようになりました。認められたようで、うれしかったですね」

 約3年半の修行生活を終えてからも、事あるごとに師匠と顔合わせ、数カ月に1度の電話は欠かさなかった。笑助氏は笑瓶さんとの最後の会話が忘れられないという。

「12月13日は芸事の私たちにとって“事始め”といって、お正月のようなものです。師匠が亡くなる前の12月に神戸で鶴瓶一門の集いがありました。4日後に師匠から電話がかかってきて、何かなと思ったら『おまえにお年玉を渡すの忘れとったから、今度、会った時に渡すわ。ほなな』と。結局、それが師匠との最後の会話となってしまいました。

 師匠が亡くなった今でもハンドルを握っていると、『急がんでええで』と師匠の声が聞こえてくるような気がする時があります。後にも先にも弟子は僕しかいません。師匠の意志を継ぎながら、歩んで行きたいと思っています」

 人に気を遣い、人にやさしく、恥ずかしがり屋で、愛妻家で、ゴルフと車が趣味だった笑福亭笑瓶さん。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

(了。前編から読む

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