【さくらももこさんとTARAKOさん】『ちびまる子ちゃん』の“生みの親”と“育ての親” 家族構成も生い立ちもそっくり、まる子が繋いだ不思議な縁

さくらももこさんとTARAKOさんは、家族構成も生い立ちもそっくりだった

「みんな集まって! ちびまる子ちゃんが始まるよ〜!」──優等生でもなければ、クラスの大スターでもない。だけどいつでも私たちの心を明るくともしてくれた「まるちゃん」は“生みの親”であるさくらももこさんと、それに命を吹き込んだTARAKOさんの愛と情熱によって誕生した。いま明かされる「まる子だった」2人の発掘秘話。【全3回の第1回。第2回を読む

【写真】ちびまる子ちゃんランドにあるTARAKOさん直筆の絵馬。まる子のイラストも!

《TARAKOさんのまるちゃんが、大好きです。声が聞けなくなるのはさみしいよ……》《TARAKOさん、長い間本当にお疲れさまでした》《あの声に毎週癒されていました》

 小さな子供から、孫の手をひいたおばあちゃんまで老若男女が、思い思いのメッセージを小さなカードにしたためて真っ白なボードに貼り付けていく。その上に掲げられているのは、「TARAKOさんありがとう メッセージボード」の文字。

 ここは静岡市清水区にある「ちびまる子ちゃんランド」。漫画『ちびまる子ちゃん』の原作者のさくらももこさん(享年53)の地元で、同作の世界観に浸れる“ファンの聖地”には連日、テレビアニメで主人公・まる子の声優を務めたTARAKOさん(享年63)に感謝の言葉を贈るべく、大勢のファンが詰めかけていた。同ランドを運営するドリームプラザ直営事業部次長の坪井充さんが言う。

「TARAKOさんの声を聞いて育ってきたかたがたが、一言でも“ありがとう”の気持ちを伝えたいという一心で来館されています。特に『ちびまる子ちゃん』は長年にわたって親しまれてきた作品なので、小さな頃に見ていた女の子がお母さんになって、自分の子供を連れてと、世代を超えていらっしゃるかたも多いです。2018年にさくら先生を追悼するために記帳台を置かせていただいたときも同じでした」

 3月4日に日本を駆け巡った突然の訃報。34年間にわたってまる子を演じ、万人に愛されたTARAKOさんの急逝に多くのファンが言葉を失った。所属事務所の発表によれば、今年に入ってから病と闘いながら収録を続けていたが、容体が急変したという。

《最後まで病棟でも収録をしたいと意欲的で、大きな愛情をもって『ちびまる子ちゃん』に向き合ってくださいました》

 自身のSNSでは車いす姿で闘病する様子も投稿していたTARAKOさんについて『ちびまる子ちゃん』制作スタッフは公式ホームページを通じて、こう彼女を追悼している。大の「ちびまる子ちゃん」ファンであり、自身の持ち歌『花はただ咲く』にさくらさんが歌詞を提供した縁で親交を深めた坂本冬美(57才)も「まる子ちゃんのお声はTARAKOさんしか浮かばない」と語る。

「TARAKOさんのかわいらしいけれど、どこか子供らしくないお声は、まる子ちゃんが時折ボソボソとつぶやく“心の声”にぴったり。あのお声だからこそ、まる子ちゃんの気持ちや行動が“わかる、わかる!”とすんなり心に入ってきた。ちびまる子ちゃんを生み出したさくら先生も、そこに生き生きとしたお声を当てたTARAKOさんも、もうこの世にいらっしゃらないのが本当に悲しいです」

 TARAKOさんはさくらさんが亡くなった2018年、「私の人生の半分はまる子」と涙ながらに語ったという。ペン一本でまる子を生み出したさくらさんと、そこに命を吹き込んだTARAKOさん。最期まできらめく才能を磨き続けた瓜二つの“まる子の母”たちの人生を辿っていくと、苦難に対峙してなお伸びやかに生きるためのヒントが見えてきた──。

女性の社会進出が進まぬ時代に“稀有な存在”だった2人

《まる子にはのんべえのお父さん、ちょっと小言の多いお母さん、しっかり者のお姉さんがいて、これもうちの家族とそっくり。まる子とは不思議な縁で繋がっているように感じます》

 TARAKOさんがかつて雑誌のインタビューでそう語っていた通り、2人の歩んできた道はよく似ている。TARAKOさんは1960年、さくらさんは1965年と2人はともに1960年代生まれ。TARAKOさんは群馬県育ちで、幼い頃から歌手に憧れ、小学校では合唱団に所属した。

 静岡県清水市(現・静岡市清水区)で育ったさくらさんはまる子と同じく、母親に怒られてばかりの、アイドルと漫画が大好きなのんきな女の子だった。

 高校卒業後、花嫁修業に励む友人を尻目にTARAKOさんはアニメの声優を志し、上京して専門学校の演技声優科に入学した。同じ頃、漫画家をめざすさくらさんは漫画雑誌『りぼん』への投稿を始め、地元の短大在学中にデビュー。しかし当時は女性の社会進出が進んでいない時代だった。マーケティングライターの牛窪恵さんが語る。

「2人が大人として夢への一歩を踏み出した1980年代は、既婚女性の7割が専業主婦だった時代。“女性は家庭を守るべき”の時代において、2人の存在は希有だったと言えるでしょう」

 未来に向かって歩き始めた2人だが、苦労が絶えなかったという。

「専門学校に通っていた頃のTARAKOさんは一袋30円のパンの耳を“主食”にして、しょうゆやソースで炒めて食べるような暮らしぶりだったそうです。卒業後、1981年に『うる星やつら』の幼稚園児役で声優デビューするも声優だけでは生活が成り立たず、スーパーマーケットの試食販売や交通量の調査員などで糊口をしのいでいたといいます」(声優関係者)

 一方のさくらさんは短大卒業後、上京して出版社に入社し、漫画を描きながら社会人生活を始めた。出費を抑えるため毎朝5時に起きて弁当を作って出社する日々で、営業に配属されたものの、外回りなどの主だった仕事は男性社員が受け持ち、女性社員の仕事は資料の整理や伝票の入力などの事務作業ばかり。会社の花見で芸を披露させられることもあった。

 昭和の企業風土に翻弄されたさくらさんだが、転機はすぐに訪れた。入社した年の5月下旬、夜中に漫画を描いていたため業務中の居眠りが多い彼女に苛立った上司から、「夜の商売でもしているのかね」と問われ、さくらさんが「実は漫画を描いているものですから……」と答えると「会社か漫画かどっちかにしろ」と詰められて「そりゃ漫画にします」と即答し、わずか2か月で退職を決めたのだ。当時の心境をエッセイ『もものかんづめ』で、さくらさんはこう綴っている。

《こうして私の辞職はあっさり決まった。課長は「いやぁ、君は面白いから会社を辞めるのは残念だが仕方ないねェ」と最後まで色物担当の私に未練を残してくれた》

第2回へ続く

※女性セブン2024年4月25日号

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