「たけしさんに見抜かれていた」THE SECONDファイナリスト・ハンジロウ
『THE SECOND〜漫才トーナメント〜2024』で、グランプリファイナルに進出したハンジロウ。地元の沖縄では高校時代から活躍し、実力派漫才師として高い評価を獲得。2009年には満を持して東京に進出するも、その後は悪戦苦闘の日々が続いた。
現在、芸歴は21年目。ニュースクランチのインタビューでは、沖縄での活躍、上京後の苦悩。そして、その先に見えた希望の光……山あり谷ありのキャリアを振り返ってもらった。
爆笑をかっさらった高校時代の初舞台
――じつは私、沖縄出身で、お二人の高校生のときの初舞台を客席で見ているんですよ。
しゅうごパーク(以下、しゅうご):えええ! まじすか?
たーにー:すごっ……。高校1年のときの?
――『フレッシュお笑い選手権大会』っていう、沖縄のアマチュア芸人が参加する大会です。そこで優勝されましたよね。
しゅうご:厳密にいうと、それが初めてではないんですけど、確かにほぼ初舞台の大会ですね。
――すごく印象に残っています。高校生二人組が漫才で会場を爆笑させていたので。
たーにー:気持ちいいですね~。
――あははははは(笑)。
しゅうご:いやー、スベったって記憶はないですけど、「爆笑とってやったぜ」っていう感覚は当時あまりかったんですけどね。
――そうなんですか? 高校生があんなにウケたら、調子に乗ったりもするのかなと思ったんですが。
しゅうご:でも正直、調子には乗ってましたね(笑)。ほぼ初舞台で大会も優勝できたので。地元の狭いコミュニティでの話なんですけど、“このままプロでやっていけるかも?”って気持ちにはなってました。
――お二人がコンビを組んだきっかけを教えてください。
しゅうご:僕らは沖縄の同じ団地の出身なんですけど、中学2年のときの美術の先生が、映像編集が趣味で、生徒と映像作品を作ってたんですよ。そのなかで、お笑いの映像作品を作ろうって話になって、僕とたーにーと、すぐにやめちゃったんですけど、もう一人の友達でトリオを組んだのが最初のきっかけですね。
当時は僕がオンバト〔NHKで放送されていたお笑い番組『爆笑オンエアバトル』〕のオタクで、放送されたネタをノートに一語一句書き起こして、分析してたんですよ。それでネタも書くようになって。
たーにー:しゅうごはその頃から研究家でしたね。
――ネタを書き起こすって、かなりの研究ぶりですよね。
しゅうご:昔のビデオデッキって、クルクル回せるつまみが付いてたじゃないですか。あれを回しながらコマ送りして、0.5秒単位で芸人さんの表情とか動きをチェックしてました。“ここでこんな表情するんだ”とか“ここでネタ飛んでる!”とか、細かいことに気づくようになって。そうやって気づいたことを、相方を家へ呼んでテレビの前で解説してましたね。
たーにー:そのときの二人の温度差はハンパじゃなかったですけどね。僕は外で遊びたい、普通の子どもだったので(笑)。
上京の背中を押したブラマヨ吉田の一言
――その研究が初舞台での爆笑につながったと。その後、沖縄で芸人として活動をスタートされましたよね。
しゅうご:高校生の頃に、沖縄でお世話になっていたオリジンっていう事務所にアマチュアの預かりとして所属することになって。3年間ライブに出たりしつつ、高校卒業したあとに、正式にプロとして芸歴が始まった感じです。
――沖縄での活動は拝見していました。地元ではすごく評価が高かった印象です。
しゅうご:そこまででもないですよ。僕らが高校生の頃には、オリジンにキャン×キャンさんとか、スリムクラブを結成する前のピン時代の真栄田(賢)さんとかいたんですけど、その先輩方がシャレにならないくらいウケていたので。僕らは常にその一段下っていう感じで。
でも、確かにに仕事はそれなりにしていました。『O-1グランプリ』っていう、沖縄のテレビ局が主催している沖縄芸人のNo.1を決める大会でも優勝したんです。21~22歳くらいのときには、芸人の仕事だけで食べられるようになっていました。
――そこから東京に活動拠点を移すのは勇気がいりますよね。
しゅうご:そうなんですよね。“一生、沖縄で芸人やるのもいいな”と思った時期はありました。地元で何十年活躍して食えている先輩芸人も多いので。でも、そういう先輩がふとしたときに「俺、若い頃に東京へ行かなかったことを後悔してるぜ」って漏らしたりするんですよ。そういうの聞くと、やっぱり東京行くべきかなって。あと、ブラックマヨネーズさんと共演したのが大きかったんですよ。
――ブラマヨさんですか? 何があったんでしょう。
しゅうご:当時、吉本の芸人と沖縄の芸人で月一回ライブをやるって企画があって。そこで、『M-1』優勝したあとのブラマヨさんとライブで共演したんですけど、そのときに地元のラジオ番組の公開収録で、ブラマヨさんと僕らで20分間フリートークすることになったんですよ。
当時、僕らはそのラジオ局でレギュラー番組を持っていたんで、全部持っていかれたら恥ずかしいなと思って。ブラマヨさんに勝てなくてもいいから、負けないようにしようと。そういう意気込みで収録に臨んだら、けっこういい仕事ができたんですよ。それで、そのあと楽屋に戻ったら、吉田さんがいきなり「自分ら、大阪か東京には来えへんの?」って。
――それはうれしいですね。
しゅうご:そしたら、楽屋の奥で背中向けて座ってた小杉さんが、めっちゃかっこよく振り返って「それやったら東京しかないやろ!」って。
――かっこいい(笑)!
しゅうご:僕も“かっけえ!”って。それで“やっぱり東京に行こう!”って決意できたんです。だから、ブラマヨさんに背中押してもらったっていう感じです。
――まさにターニングポイントですね。たーにーさんは、どう思ってたんですか?
たーにー:……しゅうごは、よくこの話するんですけど……僕は記憶が一切ないんですよ。
しゅうご:マジで!? めっちゃいいエピソードなんだから覚えとけよ。
上京当日のネタ見せで大ハマリ
――上京後すぐ『ふくらむスクラム!!』(フジテレビ系列)のレギュラーに抜擢されました。すごく上々の滑り出しですよね。
しゅうご:上京当日がネタ見せだったんですよ。上京後、最初に所属した事務所のマネージャーさんに「知り合いのディレクターにお願いして、ネタ見せ入れておいたから」って言われて。
でも、僕らは上京した当日だから、引っ越しの荷物とか持ったままネタ見せの会場に行ったんですよ。で、その荷物を置いて「はいどーもー」って漫才を始めたら、ディレクターさんたちにウケたんです。「その荷物はコントに使うんじゃないのかよ!」って。それが印象に残ったのか、レギュラーを選抜するオーディション番組の『新しい波16』に出れて、そこでも運良く勝ち上がれたっていう。
――『ふくらむスクラム!!』は、『めちゃ×2イケてるッ!』や『はねるのトびら』の流れにあたる、いわばスター街道が保証される番組のイメージです。
しゅうご:それもネタ見せの会場で初めて知ったことでしたね。番組のコンセプトになっていた「お笑い8年周期説」※も、そのときに初めて知って。スタッフさんも『めちゃイケ』で育った人ばっかりでした。
※お笑いスターは8年周期で生まれるという仮説。ビートたけし、明石家さんま、松本人志、岡村隆史がそれぞれ8歳差であることに由来。
――沖縄時代とは環境がかなり違いますよね。
しゅうご:本当にそうでしたね。カメラの数、スタッフの数、コントの作り方……何もかも違ってました。収録のときは全然ストップがかからなくて、延々カメラ回し続けるとか、そういうルールが最初はわからなくて。
たーにー:台本のオチ台詞を言っても、大きな笑いが起きないとカメラが止まらないんですよね。だから、コントに出るときはオチを5個ぐらい用意しないといけなくて。一つ目のオチを言ってもカメラが止まらなくて、二つ目を試してもダメ、三つ目はハケながら一言みたいな。そういうのを何度も繰り返すんですよ。自分の限界を決めずに、知恵を振り絞る経験はできたんですけど……。
しゅうご:その現場に慣れ始めた頃に、番組が終わっちゃった感じですね。
――『ふくらむスクラム!!』は、リニューアル版を含めて約1年で番組が終了しました。この頃には、ライブでも思い通りにいかない時期が続いたと、別のインタビューで話されていましたよね。
しゅうご:ウケないことも多かったですね。沖縄でやっていた漫才を、そのまま持ってきちゃったんで。どの言葉が方言で、どの言葉が東京でも伝わるのか、それがわからない状態で喋ってたし、間の取り方がはっきりしなかったんですよね。沖縄の訛りだと「なんでよ、やー!」ってツッコむんですけど、それを「なんでだよ!」に変えたらリズムが変わるので、その変化にうまく対応できなかったのかなあ。
――上京後には、漫才からコントにネタを変えられていますよね。
たーにー:コント番組を経験してから、コントを始めたんです。普通、逆ですよね。
しゅうご:漫才と違って、コントの台詞なら訛りにくいから、というのが理由ですね。あと、当時は賞レースも大きなタイトルは『M-1』くらいだったんで、僕らの「作品」っぽくない漫才は時代に合っていない気がして。それでコントに賭けた感じです。それからは劇場でもコントだけをするようになって、漫才をやるのは営業とかイベントだけになっていきました。
『ビートたけし杯』で優勝
――コントを始められたあと『にちようチャップリン』(テレビ東京系列)で「沖縄の英語の授業」がすごくウケていたのが印象に残っています。英語を沖縄の方言で訳すネタです。
たーにー:“こんなにウケるんだ”と思いましたね。僕らにとっての代表作ができたって感じでした。
――それ以前までのネタとは方向性が違うようにも思いました。
しゅうご:そうなんです。じつは、僕らは沖縄の方言をネタにするのを避けてたところあったんですよ。方言のネタはガレッジセールさんとか、元ホーム・チームの与座さんとか、上の世代の沖縄芸人がやったことで、僕らの世代の沖縄芸人には“アレをやったら負け”っていう価値観があったんですよね。要はトガっていただけなんですけど。
――方言で笑いをとるのが、安直な感じがしていたと。
しゅうご:でも、30歳を過ぎたくらいから、自分のアイデンティティに抗うのも意味がない気がしてきたんですよね。ちょうど、そのころに『にちようチャップリン』で方言ネタの特集をやるのでどうですか?ってオファーが来て。
じゃあ、やってみようかって、あのネタを作ったらバズって。そこでやっと“方言のネタもやったほうがいいんだな”って。沖縄を受け入れる覚悟ができたんですよね。あんなに“方言のネタはダサい”と言っていたのに。
たーにー:めっちゃ遠回りですよね。
――でも、そうした変遷を経て、最近では漫才の評価が高まっていますよね。先日は『THE SECOND』のファイナルに進出されました。
しゅうご:世の中よくできてるなって。漫才じゃダメだからコントを始めたら、漫才で評価され始めるっていう。
たーにー:飽き性なんでしょうね。二つのことをやっているほうが、どちらにも良い影響があるタイプなんじゃないですかね。
しゅうご:だから、『THE SECOND』にはすごく感謝してます。『M-1』と違って、作品っぽい漫才じゃなくても評価してくれる空気なので。僕らにも合っている気がします。
――ということは、来年以降もタイトルを狙っていきたい?
しゅうご:もちろん。今のところ、僕らのタイトル歴は『O-1グランプリ』と『ビートたけし杯』の2つなんで。そろそろ3つ目の大きなタイトルがほしいですね。
――2023年にビートたけしさんが直接審査する『ビートたけし杯』で優勝されていますね。たけしさんから何か声は掛けられましたか?
しゅうご:めちゃくちゃネタのアドバイスをもらいました。
たーにー:披露したのは、もともとやっていたネタだったんですが、“ちょっと足りないかな”と思って、急遽前日に足した部分があって、それがうまくハマったんですけど、その部分をすごく褒めてくれて。「あそこがあったからお前らに決めた」と言ってくださったんですよ。やっぱ見抜いてるんだ。すごいなって。
しゅうご:記者向けの写真撮影のときも、ずっと僕らの隣で話しかけてくださったんですよ。カメラマンの人が「こっちに表情をください!」と言ってるのに、たけしさんは一瞬だけ正面向いたあと、すぐ横を向いて僕らに話かけてくださって。
いや、すごくうれしいんですよ。うれしいんですけど、僕らは記者の人にも気を使わないといけないから、カメラマンさんに顔を向けて、たけしさんの目を見て、って大変でした。途中で“もういいや! たけしさんのほうが大事だよ!”って、たけしさんに集中しましたけど。
たーにー:記者の方が「今のテレビについてどう思いますかー?」とか遠巻きに質問してきて、確かに大会と関係ない質問ではあるんですけど、たけしさんが小声で「あいつ、バカじゃねえ? な?」って。“いやいやいや、ちょっと待ってくれって(笑)、俺みたいな小物がそれに頷けないよ!”って。
――受け止めきれない(笑)。
たーにー:まあとにかく、一挙手一投足、全てがかっこよかったですね。THE・芸人って感じで。カリスマでした。
――近ごろ、YouTubeチャンネルも開設されて活発に活動されています。今後の展望を教えてください。
しゅうご:これまで出た全国放送の番組のうち、8.5割くらいはネタ番組なんで。ネタ番組以外の仕事をいっぱいやりたいです。トーク番組とか、ロケ番組とか。今は、鶴見のケーブルテレビと沖縄ローカルで番組を持っているんですけど、それを全国放送でやりたいです。
――現在は、お二人とも、かもめんたる槙尾さんのカレー店『マキオカリー』の店長を務めながらの、二足のわらじの活動です。
しゅうご:早くお笑いだけで食べていきたいとは思っています。特に僕のお店は赤字が続いているので(笑)。ただ、仲間とかお客さんが集まる場にもなっているので、今後はお笑いで収入をちゃんと得つつ、お店を続けるっていうのが目標ですね。
(取材:島袋 龍太 )
09/04 12:00
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