麿赤兒「中学で演劇部を設立し一年から部長に。純粋に演劇に惹かれたというよりは、似た境遇の仲間と擬似家族のようにするのが楽しくて」
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登校拒否じゃなく下校拒否
舞踏家にして俳優。それも舞踏集団・大駱駝艦(だいらくだかん)主宰という、何かおどろおどろしい肩書きの前衛芸術家。
麿さんの掲げる「天賦典式(てんぷてんしき)」という様式は、この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能であり、忘れ去られた身振り手振りを採集して作品を生み出すこと、だという。
麿さんの舞踏を観ていると、その肉体という文体で描かれるさまざまな形から、想像力がどこまでも広がっていって、いつか哀しみに似た感覚に捉えられ、その哀しみがいつしか美しさに変わる。それが麿さんの舞踏とわかる。
一見、強面の前衛芸術家だが、問いかけに気さくに答えてくださるのは予想通りだった。
まずはその生い立ちから。
――父は戦時中、僕が二つの時にテニアン島という、サイパンのちょっと南の島で戦死しました。それは悲惨なものだったらしいですよ。父は海軍参謀でしたし、もう駄目となって自決したとも言われています。
母はそれを知って精神を病みましてね。僕はまず父方の祖母の家に行ったけど、その後は奈良県三輪山の叔父夫妻の世話になって。可愛がってもらいましたけど、他人の家ですからね。
中学に入ってからはむしろ学校にいるほうが楽しくて。登校拒否じゃなくて下校拒否。演劇部を作ってね。なんだかみんな同じような境遇の者が集って、カウンセリングクラブみたいになって。喋ってるうちにどんどん解放されていきました。
ちなみに、中学1年にして部長。顔はもうそのころからヒネまくってましたから、皆から信用されましてね。学校には結構立派な図書館があって、チェーホフとかイプセンとか揃ってましたから、そこで戯曲を、よくわからないながら読んでいました。
中学生の麿さんが演じた戯曲はチェーホフの『熊』とか、木下順二の『夕鶴』とか。『夕鶴』は当時の学校演劇でかなり流行った人気演目。
――『熊』では酔っ払いの親父の役。鼻を真っ赤にしてね。『夕鶴』では与ひょう。やはり木下順二の『彦市ばなし』の彦市とかもやりましたよ。高校に進んでも相変わらず演劇部で虚構の世界に。ほとんどこれ、逃避ですよね。
その後、早稲田大学第一文学部の哲学科に進むんですが、先輩にのちのSCOTの演出家・鈴木忠志がいて、あの人は背が高くて二枚目だし、同期には今の松本白鸚さん――当時の颯爽たる市川染五郎さんがいたりして、少々のコンプレックスを持ちましたよ(笑)。
歌舞伎研究家の郡司正勝さんの講義に2、3回出席したけど、女方の真似をなさるのがなまめかしくて面白かったですよ。その後いろいろあって中退しました。
ですから第1の転機は、中学時代に演劇の道に引き寄せられたことでしょうね。純粋に演劇というものに惹かれたというより、似たような境遇の仲間と擬似家族みたいにしていたのが楽しかったわけですけど。
大学に行かなくなった麿さんの行き先は、女優の山本安英が主宰する「ぶどうの会」に研究生として。演劇部時代の『夕鶴』上演に連なる縁か。
――そうですね。中学の時に自分たちで演劇をやってから、大阪で山本安英さんの『夕鶴』を観たんです。山本さんの幽霊っぽいような、霞んでるような立ち姿に惹かれましてね。母親的な幻想を見たような……。
「ぶどうの会」に入ると山本さんの講義があって、僕はいつもできるだけくっつくぐらいすぐそばに座るものだから、気味悪がられてました。(笑)
その「ぶどうの会」は、入って半年で解散・分裂しちゃったんで、僕は若手の劇作家や演出家の宮本研さん、竹内敏晴さんが結成した劇団「変身」というのについていったんです。
そこでどんな風の吹き回しか、モリエールの『ドン・ジュアン』の主役に抜擢されたの。黒いタイツをはかされたり、女優とキスの場面があったりで、もう恥ずかしくてね、田舎の青年でしたから。
ところが、初日の前の晩、淀橋警察署から「任意でいいから出頭せよ」という通知が来たので素直に署に行ったら、そのまま収監されてしまった。何ということもない、一年前に新宿の路上で仲間と一緒に喧嘩した、ということだった。
まぁ、じきに釈放になるんですが、それでも大事な初日に穴をあけたということで厳しい総括に遭いましてね。それで劇団に何となく嫌気がさして、新宿の風月堂という、そうした連中がゴロゴロしている喫茶店で一日中過ごすようになりました。
10/30 12:30
婦人公論.jp