島津亜矢が『徹子の部屋』に登場、母の胎教を語る「厳しい母との二人三脚でつかんだ歌の道。歌を覚えるまで押し入れに。のど自慢大会優勝トロフィーは100本以上!」
歌手・島津亜矢が、2024年10月7日放送の『徹子の部屋』に出演、歌手修業中の甥と「Amazing Grace」を歌う。圧倒的な歌唱力で「歌怪獣」と称される島津の母は胎教で演歌を聴かせていたそう。半生を語った『婦人公論』2022年4月号の記事を再配信します。
*******
【写真】6歳の島津さん。のど自慢大会で優勝し、トロフィーを手に
演歌はもとより、ポップス、洋楽、往年のヒット曲のカバーなど幅広いジャンルを歌いこなし、その圧倒的な歌唱力から《歌怪獣》とも称される島津亜矢さん。デビューして36年、歌ひとすじの人生の軌跡は――。2022年3月16日には新曲『花として 人として』を発売、初のオンラインサイン会も開催する。今年から月刊化し大好評発売中の『婦人公論』4月号より特別に記事を公開します。(構成=福永妙子 撮影=宅間國博)* * * * * * *
歌手になるため14歳で上京して
《歌怪獣》というのは、2度目の『NHK紅白歌合戦』出場(2015年)で、「帰らんちゃよか」を歌ったとき、芸人のマキタスポーツさんがとても称賛してくださって、ラジオで「これは怪獣だ、歌怪獣だ」と。嬉しかったです。それ以降、「あ、歌怪獣の人だ」と言われるようになりました。(笑)
5度目の出場となった『紅白』で中島みゆきの「時代」を歌った直後は、所属事務所のホームページにアクセスが殺到する事態に。翌年の「糸」も、大きな話題となった。
――若いファンの方たちが増えました。もともとコンサートでは、演歌以外の歌もレパートリーに入れていたのですが、最近は各局の番組で、いろいろなジャンルの曲を歌う機会をいただきまして。そういった番組には、演歌以外のジャンルの若いアーティストもたくさん出ていらして、そのファンの方たちが私の歌を聴いて、興味をもってくださったようです。『紅白』もそうですね。
コンサートに来てくださるお客さまの層も広がりました。「おばあちゃんを誘ってきました」「親子三代で」といった方々も増えて。カバー曲をきっかけに、私の演歌も聴いてくださるようになって……それは本当に嬉しいことです。
母親のおなかにいるときから演歌を聴き、物心つく頃には、いつも演歌を歌っていた島津さん。地元・熊本のちびっこのど自慢大会では常にグランプリを獲得。大会主催者から「出場ストップ」をかけられるほどで、小学1年生でのど自慢大会を〈引退〉したとき、優勝トロフィーは100本以上あったという。
――小さい頃から「多分、歌手になるんだろうな」と思っていて、小学6年のときには「絶対になる」と決意していました。
歌の練習は、もっぱら家で母にアドバイスをもらいながらやっていました。母は自分では歌わないのですが、私への指示は厳しく、たとえば初めて聴いた歌を15分で覚えなさいと。もちろん最初は覚えられません。すると、トイレや押し入れに閉じ込められる。恐怖で覚えられるようになるんですよ(笑)。今も歌を覚えるのは速いほうで、それは母の特訓の賜物です。
母には、「歌手になりたいのなら中途半端な気持ちじゃだめ。人と同じように遊んでいたら人と違うことはできない。遊んでいるヒマがあれば歌の練習をしなさい」と言われ、友だちからの遊びの誘いも、断ることが多かったですね。
中学生のとき、レコード会社からスカウトされ、14歳で熊本から単身上京。作詞家・星野哲郎氏のもとに弟子入りした。
――「東京に行きたい」と言ったとき、母は賛成しませんでした。歌手になることに反対なのではなく、「まだまだ親元で勉強することはいっぱいある。もう少し先でもチャンスはあるのだから」と。
でも私は、「チャンスなんて何度もめぐってこない。今、行くしかない」と譲りません。何とか説得して上京することになったのですが、母は、「一人前になるまでは、この家の敷居は跨がない、くらいの気持ちで行け」と、旅立ちのときも涙も見せません。ひたすら泣いていたのは父でした。(笑)
おまえの根性と、ノドさえ腐らなければ
上京後は事務所の社長さんのお宅に居候させていただいたのですが、ホームシックになりましたね。母に泣きつけば、「自分で選んだんやろ」と言われるはず。そこで、祖母にコレクトコールで電話。それも毎日です。「つらかったら、帰っておいで」の言葉を聞けば、逆に「帰れないな」と思う。揺れ動く気持ちのなか、祖母との電話はこの頃の私の支えになっていました。
まだ14歳の子どもで、耐えられる容量が少なかったのでしょう。「つらいな」と思うことは多かったのですが、壁に当たった私が恩師の星野哲郎先生のところに泣きごとを言いに行くと、先生はいつもこうおっしゃいました。「おまえの根性と、そのノドさえ腐らなければ、必ず何とかなる。とにかく前を向いて歩け」。その言葉に、「よし、頑張ろう」といつも励まされました。先生は2010年に亡くなられましたが、私にとってずっと特別な存在であり続けました。
サポートのため、母が東京に出てきたのは、私の上京の1年後です。母もずいぶん大変だったと思います。何しろ、熊本の小さな町で主婦をしていたのが、40歳で東京に出てきて、まったく縁のなかった芸能界にかかわることになったのですから。
芸能界にはいろいろな方がいて、田舎では考えられないようなことも起こります。母も戸惑ったり、納得がいかなかったりで、葛藤も相当にあったはずです。でも、それらを一つひとつ乗り越え、時を経て、今は私の事務所の社長を務めてくれています。
その母と二人三脚でやってきました。厳しさは相変わらずで、私が難しい曲に苦しんで、「こんなの歌えるわけない」とこぼすと、「他の人にできて、あなたにできないわけはない」という言葉が必ず返ってくる。「それは違う」って思いますけど。(笑)
私も、母に投げられた難題を、こっそり練習してクリアし、平気な顔をして歌う。そこに達成感があって、そんな娘の性格を母は知り尽くしているんですね。ほめたり甘やかしたりはせず、はたちになったときも、「あんたの成人式は、歌手として一人前になったときだ」と、お祝いもなし。
それが、初めて『紅白』に出場した30歳のとき、「はたちのお祝いもしてあげなかったから」と言って、初めて指輪をプレゼントしてくれたのです。当時、流行っていたカルティエのラブリング。嬉しかったですね。
私と歌がしっかり四つに組めた
これまでを振り返って、ターニングポイントといえば、19歳のときでしょうか。最初にお世話になった事務所をやめ、契約の問題などもあり、1年くらいお休みしなければなりませんでした。生活も心配だし、歌わないことの不安もある。そんなとき、今もお世話になっているレコード会社さんが、「声を出すことを絶やさないように」とボイストレーニングに通わせてくださったのです。
さらに、そのあいだの生活を支えるためにと、音多カラオケ――当時、歌唱を教えるガイドとして、歌を載せた音声多重のカラオケがあり、デビュー前の歌手の方たちが歌を入れていたんですね。その仕事をくださって。こうしたことで本当に助けていただきました。
1年後、新しい事務所から再出発。「愛染かつらをもう一度」という歌を出すことになったのですが、柔らかな感じのその歌に最初は馴染めなかった。私にとって演歌とは、北島三郎さんが歌い上げる力強い世界が理想だったのです。それで、詞を書いてくださった星野哲郎先生に、恐れ多くも直談判に行きました。
すると先生はおっしゃった。「おまえがどんな歌が好きか、どんな歌を歌ったら持ち味を生かせるか、全部わかっている。その俺が、今、この歌を歌えと言っているんだ」。それで仕方なく受け入れたのですが、数ヵ月後、その曲がこう、ピタッときたというか、私と歌がしっかり四つに組めて、自分のものになった感じがしたんですね。
実際、30万枚のヒットとなり、たくさんの方に歌っていただけるようにもなりました。独りよがりになったり、こだわりすぎてはいけない。このときのことは、歌手としての幅が広がる一つの契機ともなりました。
長い黒髪をショートカットに
「演歌歌手はこうあるべきだ」というものの一つが、女性の場合、着物を着て長い黒髪をまとめてシニヨンにすることでした。私は本来、「こうでなければいけない」「これをやっちゃいけない」を守り、その枠のなかで右往左往するタイプ。けれど、多分、そういうことに疲れてきたんでしょうね。ムシャクシャすることがあったのかもしれない。
CDジャケットの撮影日に、突然「髪の毛を切りたい」と思い、そのときヘアメイクを担当してくださっていたIKKOさんに相談しました。そうしたら「いいと思う」と言ってくださって。そのまま美容室に行き、ショートに。すると今度は髪の色も変えたくなって、ブリーチしてピンクを入れました。
最初のうちは、皆さんびっくりされたみたいです。細川たかしさんは私の髪を見て、「おまえ、どうしたんだ!?」とおっしゃっていました。でも、そのうちに、吹っ切れたように、気持ちもスッキリしてきたのです。
時を同じくして、演歌以外の歌に挑戦する機会をいただけるようになりました。もともといろいろなジャンルの歌が好きだったので、心おきなく挑戦することができ、また自分の世界が広がった気がしました。
いつもと違うことをやるのには困難がつきもの。最近の歌は言葉の数も多いし、リズムの刻み方も、自分がこれまで経験してきたものとはまるで違う。「これ、音がとれない」「どこで息継ぎをすればいいの」ということはしょっちゅう。でも、何度も繰り返し練習するうちに体に馴染んでくる感覚があって、それがまた楽しいんですよね。
私は演歌が大好きです。演歌は人の心の枝葉の部分、人情の機微を歌う、とても大切なジャンルだし、ずっと歌っていきたい。と同時に、チャンスをいただけるのなら、今後も、どんなものにも挑戦していきたい、と思うのです。
歌という道があるのだから
3月16日に新曲をリリース。「花として 人として」は、この世に生まれ、生きることの喜びを歌い上げ、カップリングの「錦秋譜」には、母への想い、子への愛が綴られている。
――この2年、コロナ禍でみなさん、気持ちも落ち込みがちですよね。「花として 人として」は、いわば日本版のゴスペル、人間讃歌です。ゆったりとした壮大な曲で、今の時代だからこそ伝えたい大きな愛が描かれ、ずっと大切に歌っていきたい歌です。
「錦秋譜」は、幼い頃にお母さんを亡くした女性が母親になった心情を込めた歌。私自身は子どもを産み育てたことはありませんけれど、厳しい母とずっと一緒にいますから。幼い頃は叩かれたこともあります。けれど、その母の心のなかはすごく痛くて苦しかっただろう、というのは、今この年齢になると、とてもよくわかるのです。
こんなふうに、歌によって心を揺さぶられたり、力をもらったりする。その歌を歌い続け、みなさんに聴いていただける私は本当に幸せ者だと思います。
これまで恋らしきものもあったけれど、恋愛よりも歌でした。「あんたは普通の人が味わえないようなことをやらせていただいているのだから、普通のことを望んではだめ」と、ずっと母に言われてきました。
実際その昔、母は私の恋を、「許さんけん」と言って、かなりの勢いでぶっ潰しにかかってきたこともあります(笑)。私も、「これ」と決めた歌という道があるのだから、女性としての幸せは望まないと思い、今に至ります。
そんな私のプライベートでの愛の対象は、4匹のトイプードル。みんな女の子で、趣味もない私にとって、この娘たちと過ごすひとときが最高の癒やしです。
これまでの私は、どちらかといえば型にはまった生き方だったかもしれません。でも、これからはもう少し肩の力を抜き、気楽にいこうかなと。そうして、心と体を大事にしながら、大好きな歌を一日でも長く、楽しく歌っていきたいと思うのです。
10/07 11:30
婦人公論.jp