小林幸子「歌手人生60年〈ニコ動に出るようになったら終わりだ〉と言われても、演歌もボカロ曲も、自分の歌で皆に楽しんでもらえれば本望」
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大喜びした父、大反対した母
8月の初旬に60周年記念コンサートを無事に終え、ホッとしているところです。10歳で歌手になってから、もうそんなに経つのですね。
デビューした1964年は、初めて東京でオリンピックが開催された年でした。歌手生活の間に東京オリンピックが2回も行われたことを考えると、長くやってきたものだなと思います。
コンサートでは、AI技術で10歳の自分の姿と声を再現していただいて《共演》したのですが、リハーサルで号泣してしまいました。彼女が私に聞くんです。「これから私はどうなるの?」って。そこからデビュー当時のことが走馬灯のように蘇ってきて……。10歳の自分と会話をしながら、たくさんの方に応援していただいて今があるのだと痛感し、感謝の思いが溢れました。
振り返れば、苦しいことや悔しいことが数えきれないほどあったのも事実です。当時は、涙がもったいないからとグッとこらえたこともありました。幾度歌手をやめたいと思ったことか。やめなかったのは歌が好きだから。それに尽きます。
小さなころから歌が大好きでした。といって、歌手を夢見ていたわけではありません。若いころ歌手志望だった父が、勝手に9歳の私の名で『歌まね読本』という視聴者参加型の番組に応募したところから、運命の歯車が動き始めたのです。
「東京見物に連れて行ってやる」という父の言葉につられ、新潟から列車で7時間かけて上京して。「わあ、東京タワーだ!」と思ったら、TBSの電波塔でした(笑)。
家でよく歌っていた美空ひばりさんや畠山みどりさんなどの歌まねをして勝ち抜き、わけもわからぬままグランドチャンピオンになったのですが、奇跡が起きたのはそのあと。番組で審査委員長を務めておられた作曲家の古賀政男先生から、弟子入りのお誘いがあったのです。
父は《神様》からスカウトされたと歓喜していましたが、母は「幼い娘を芸能界なんかに入れられない」と大反対。結局のところ、私の意思に委ねられることになりました。
「歌手になりたい?」と聞かれたときに、なんだか変な空気だな、重要な決断を迫られているのかなと子どもながら思ったことを覚えています。でもそれは一瞬のことで、私は深く考えずに「うん、なりたい!」と答えたのです。
母は、そんな私の言葉を聞くとすぐに自分の着物を出してきて、畳み方を覚えなさい、と言いました。「芸能界に入ったら大人も子どもも関係ないのだから、何でも一人でできるようにしておかなくちゃいけないのよ」と。母が寂しさをこらえているのが、ひしひしと伝わってきて……。
ごめんなさい、思い出したら涙が出てきちゃった。歌手になってからも、「まだ反対してる?」と聞くと「反対だね」と言っていましたが、その実、一番応援してくれたのは母でしたね。
歌の神様は私を見捨てた
歌手になると決めてからは一人上京して古賀先生のレッスンを受け、デビュー曲「ウソツキ鴎」はヒットしました。でも、そこから15年間は鳴かず飛ばず。新曲が出るたびに全国の商店街にあるレコード店でキャンペーンをして、レコードを手売りしていたのです。
歌を聴いてくださっていた人たちが立ち去ったあとに、配った歌詞カードが地面に捨てられていて、毎回それを1枚ずつ拾い集めていました。あれは悲しかった。
両親と2人の姉が上京して一緒に暮らすようになったのは、15歳のときでした。私がデビューした年に新潟地震が発生し、復興のため大手スーパーなどが参入してきたので、家業の精肉店を続けることができなくなってしまったのです。
私はお金を稼ぐために、年齢を上にごまかしてナイトクラブやキャバレーで歌うようになります。店長さんから「ジャズ歌える?」と聞かれれば「歌えます!」と即答し、当日までに英語の歌を耳コピで覚えるの。歌えませんなんて言ったら仕事がなくなってしまうので、とにかく必死でした。
一方で、今度こそはと意気込んで出す新曲はいっこうに売れない。そんな時期が続き、歌の神様は私を見捨てたのだと思うようになったのです。
それだけに、25歳のときに発売した28枚目のシングル「おもいで酒」が有線放送で1位になったと聞いたときは、耳を疑いました。おかげさまで大ヒットにつながり、その年の『NHK紅白歌合戦』に初出場。それから数年後には、小林幸子といえば巨大衣装、というくらい派手なステージを届けるようになりました。
あれは、全国のみなさまに喜んでいただきたい一心だったんです。ライバルは、前の年の自分。毎年スタッフと一丸となって準備するので大変でしたが、楽しかったですね。
ところが2012年、事務所のことでマスコミからバッシングを受けてしまい、そこからの3年間は『紅白』にも出ていません。悔しかったけれど、私は鏡の前で「あなたは強いから大丈夫!」って何度も自分に言い聞かせました。歌いたいとはっきりと思っていたし、その気持ちがブレることはなかった。
私にとって、好きなことを続けるために突き当たる壁は、《苦痛》ではなく、今乗り越えるべきものという感覚。そして、その先には必ず希望があると信じていました。
ベテランのプライドは手放して
ラッキーだったのは、当時若者に人気だった「ニコニコ動画」(ネットの動画共有サービス。通称・ニコ動)に出合えたことです。生放送の出演オファーをいただいたときは、「ニコ動って、何?」と正直チンプンカンプン。
でも、スタッフに強く勧められて出演をお引き受けしたんです。そうしたら、私が登場した途端、「わっ、本物の小林幸子じゃん!」など、視聴者のナマの声が文字で画面に流れ始めたので、もうビックリ。でも、それが最高に面白かったのです。
私が若い人たちの間で、『紅白』での衣装がゲームのラストに立ちはだかるボスに似ていることから「ラスボス」と呼ばれていることも、初めて知りました(笑)。
このご縁で参加したコミックマーケットでは、コスプレをしている子たちに「可愛いわね」と声をかけたら、「キャー! コスプレの女王に褒められた」なんて言うので、私はそういう受け入れ方をされていたのかと驚いたり。とにかくすべてが新鮮な出来事でした。
それからすっかり面白くなって、難易度の高いボカロ曲(ボーカロイドというソフトウェアを使って作曲し、歌声も機械で作る楽曲)を、生身の人間である私が歌いこなせるのか挑戦する動画を投稿。
今回のコンサートでも、「千本桜」などボカロの名曲を数曲歌いました。会場には演歌を聴きに来てくださった年配の方もいれば、ボカロ曲を楽しみに来てくださった若い方もいて、嬉しかったですね。
当初、「小林幸子もニコ動に出るようになったら終わりだ」などと言われていたようです。でも、そういうことを言ってはダメですね。時代は刻々と進んでいるのですから。若者に迎合する必要はありませんが、やってもみないで拒絶するなんてもったいないと思います。私は、自分の歌でみなさまに楽しんでいただけたら本望なのです。
ベテランだなんていうプライドは手放し、新たなことに挑んでダメだったらやめればいい、というくらいの軽やかな気持ちで歩んできました。結果、歌手人生の中で今が一番楽しいです。
デビューしたころ、古賀先生が「いいかチビ、歌でお腹をいっぱいにすることはできないけれど、人の心を温かくすることはできるんだよ」と話してくださったことが忘れられません。先生の言葉を胸に、これからも歌い続けていきたいと思っています。
11/05 12:30
婦人公論.jp