ショッピングモールの歌姫・半崎美子「歌手になるため北海道を飛び出し、パン屋で住み込み。反対していた父が、ラジオ局に手紙を送ってくれていた」

振り向く半崎美子さん

撮影◎本社 武田裕介 以下すべて
北海道出身のシンガーソングライター。「ショッピングモールの歌姫」として数々のメディアで話題となり、17年の下積みを経て2017年にメジャーデビュー。歌を通して出会った人々の思いに耳を傾け、受け取った声を楽曲に吹き込む半崎(崎はたつさき)美子さんの歌声は、多くの人の心を打つ。2024年度から小学校の教科書に自身の楽曲『地球へ』の掲載が決定。天童よしみさんをはじめとして、人気アーティストへの楽曲提供を手掛けるほか、校歌制作にも携わる。2024年9月20日より、「『人生案内』と私」と銘打って全国各地でコンサートツアーを開催予定。「ショッピングモールの歌姫」が生まれるまでの経緯、インディーズ時代の思い出についてうかがった。(構成◎碧月はる 撮影◎本社 武田裕介)

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【写真】コンサートに駆け付けたご両親と、笑顔で

雷に打たれたように「歌手になる」と思った

――普通高校から大学の経営学部に進学した半崎さんは、ある出来事をきっかけに歌手を目指し、出身地である北海道から単身東京を目指す。「ショッピングモールの歌姫」のルーツに迫る。

「歌手になりたい」とはじめて思ったきっかけは、高校の学園祭でDREAMS COME TRUEの『す き』をカバーして歌って優勝した時です。それで少し手応えを感じて、大学1年の頃に知り合いに誘われてクラブで歌うようになりました。そこでいただいた拍手や「感動した」というお客様の声を聞き、雷に打たれたように「私は歌手になる」と思ったんです。

でも、当時の父は猛反対でした。私自身が好奇心旺盛な性格で、興味を持ってはすぐにやめてしまうタイプだったので、歌手という夢も「どうせ続かない」と思ったんでしょうね。親としては当然、「食べていけるの?」という心配もあったと思います。なので、毎晩父が帰ってくるたびに土下座をして、「東京に行かせてください。歌手を目指したいんです」と説得しました。でも結局、父は首を縦に振ることはなく、最終的には自分で住み込みでできる仕事を探し、都内のパン屋さんのアルバイトを見つけて東京へと旅立ちました。

ただ、母は当時、私の夢に対して唯一の応援者でいてくれました。一緒に上京して、お世話になるパン屋さんのオーナーに挨拶してくれたり。パン屋さんの2階に住み、1階と2階の往復をする毎日が私の一人暮らしのスタートでした。

私が上京した当時は、インターネットが普及する前の時代で。タウンページでレコード会社の事務所やクラブを探して、自作のデモテープやMDを持ち込んで「歌わせてください」と直談判しました。タウンページとMDって、今では考えられないですよね(笑)。週6回パン屋さんの仕事があったので、唯一のお休みの金曜日にクラブやレコード会社を回り、歌わせてもらえるお店を見つけては歌っていました。

「ショッピングモールの歌姫」誕生の経緯

――デモテープを持ち込み、自分の歌を売り込むのに必死だったインディーズ時代を経て、「ショッピングモールの歌姫」と呼ばれるまでになった半崎さん。歌う舞台をクラブからショッピングモールに移したのには、どのような経緯があったのか。

インディーズ時代、レストランで演奏されているピアノ奏者の方を見かけて、休憩中にいきなり「私のピアノを弾いてください!」と声をかけたんです。はじめは警戒されましたが、「怪しいものじゃないです」と必死に説明して。その方が週末にショッピングモールで司会のお仕事をされていることがわかり、ご縁が繋がって、モール内ステージでの出番をいただけるようになりました。はじめて歌ったショッピングモールは、忘れもしない、海老名のViNAWALKでしたね。

インタビューを受ける半崎美子さん

 

ただ、無名の歌手ですから、最初はお客様に足を止めてもらえない期間が長かったです。そこから、どうやったら足を止めてもらえるだろう、最後まで歌を聞いてもらえるだろう、CDを手に取ってもらえるだろう、とたくさん考えました。ガラガラの客席で、前のほうの席に座るのって勇気がいりますよね。なんとなく、途中で席を立ちにくいでしょうし。

だから椅子の並べ方を変えてみたり、お客様の導線上のエスカレーターのそばにCDの販売場所を設置したりと、独自でさまざまな方法にトライしました。見えないところから司会のように「半崎美子さんです!」って自分でアナウンスして登場するなど、少しでも多くの人に興味を持ってもらえる工夫を重ねました。

サイン会で対話を深めていく時間も、私にとって貴重なものでした。お客様一人ひとりと対話をした結果、6時間ほどかかったことも。人によっては言葉に詰まったり、沈黙があったりする場面も。そういう時、私から言葉をかけることなく、相手の言葉が出てくるのをじっと待ちます。一緒に黙って涙を流して、かたい握手を交わすだけということもあります。そういう対話を含めて、お客様との出会いや交流が私自身の生きる糧になり、救いにもなりました。

最初の頃は、「私の思いを歌で聞いてほしい」という気持ちが強かった。ところが、モールでの対話を機に、「発信」から「受信」に重きを置くようになったら、自然と曲の作り方も変わったんです。皆さんの思いを受けとった時に自分の中に少しずつ降り積もっていく言葉や思いが、折に触れてぶわっとあふれる瞬間があるんです。それがメロディを伴って歌詞として出てくるので、その声をボイスメモに録音して、ライターさんのように聞きながら文字起こしをして曲を作っています。これが本当に不思議な作業で、自分で書いている気がしないんです。何かに書かせてもらっている感じというか。亡くなった方の声も含めて、自分自身が器となって誰かの思いを歌にしている感覚です。

お客様の声から生まれた名曲

――お客様との対話を重ね、受けとる思いを糧に歌い続ける半崎さんは、栃木県のショッピングモールであるご家族に出会う。その出会いから、半崎さんが得たものとは――。

ショッピングモールで歌うようになってから、「80歳になってはじめてCDを買いました」と言ってくださる方や、小さなお子様連れの方、車椅子でお越しになられる方など、ショッピングモールならではの出会いがたくさんありました。中でも、栃木県のショッピングモールで出会ったご家族との思い出は忘れられません。

ジェスチャーを交え話す半崎美子さん

 

インディーズの頃、歌いに行ったその会場でライブ後、サイン会に数人並んでくれたお客様の中に、そのご家族がいらっしゃいました。会った時には直接お話されなかったのですが、のちにくれたお手紙に、大切な息子さんを事故で亡くされたことが綴られていました。お手紙から、私の歌に思いを重ねてくださっていること、ご家族の深い悲しみが偲ばれ、何度読んでも涙が止まらなくて。その1年後、『明日へ向かう人』という曲を作り、同じ栃木県のショッピングモールで歌ったんです。

歌う前に、「この曲は、以前ここで出会ったご家族に宛てて書いた歌です」と話をしたら、当日のサイン会にご家族当人が来てくれていて。「私たちのために書いてくださったんですね」と声をかけてくれました。その再会から今も交流が続いていて、この時の出会いは私の音楽人生の中ですごく大きな意味を持つものでした。

ショッピングモールで歌いはじめた当初、ほとんどの人が通り過ぎていく中で、落ち込んで、別の場所で歌うことを考えてもおかしくないと思うのですが、不思議とそうはならなくて。1人か2人のお客様が柱の影や遠くから聞いてくれたり、涙ながらにCDを買いに来てくれたり。それぞれの出会いが忘れられなかったからなんですよね。衣料品売り場のスタッフさんや警備員さんが仕事終わりに聞きにきてくれたりとか。人数じゃなくて、そういう垣根のない雰囲気やショッピングモールならではの稀有な雰囲気が、歌い続ける力につながりました。

自分と同じ思いを持っている人が必ずどこかにいるはずだと、そう思って歌い続けてきて、その中で「この人は私と深いところでつながっている」と思えた経験はすごく大きかったです。曲の解釈や受けとめ方は、それぞれ好きなように感じていただければと思っています。ただ、「1人じゃない」という気持ちを分かち合えたらと思いながら、日々歌っています。

歌手の夢を反対していた父の“本当の思い”

――天童よしみさんへの楽曲提供で話題となった『大阪恋時雨』が、『第70回NHK紅白歌合戦』で歌われた。当初、歌手になることに反対していた父をはじめ、娘の活躍をご両親はどのように受けとめていたのだろうか。

天童よしみさんが『大阪恋時雨』を歌われた日、私はちょうど実家に帰省していたんです。楽曲提供者として私のクレジットが流れたのを見てすごく感激しましたし、両親も喜んでくれました。憧れの紅白に、先に名前だけ出るという有り難い出来事でした。

はじめにお話した通り、私が歌手になることを父は反対していました。なので、しばらくの間は疎遠状態だったのですが、実は父が、私が住み込みをしていたパン屋さんにこっそりお金を置いていってくれたことがあって。母は母で、私を尋ねてくる際にメロン6個と北海道ラーメン6箱を担いで持ってきてくれたりとか。(笑)

笑顔で話す半崎美子さん

 

インディーズ時代、上京したあとに北海道で凱旋ライブを行ったことがあるのですが、やはり人が集まらなかったんです。そんな時、父がコンサート会場を押さえてくれたり、母がショッピングモールでチラシ配りを手伝ってくれたり。父は、北海道のラジオ局に「娘がCDを出しました」と手紙を添えて送っていて、影ながらずっと応援してくれていたんです。当時は母としか連絡を取り合っていなかったのですが、その時のことを思い出すと今でも泣けてきます。

2008年頃、私が『永遠の絆』という歌を両親に宛てて書いてから、父も少しずつ私の活動を気にかけてくれるようになったみたいです。両親だけではなく、パン屋さんのオーナーもいまも活動を応援してくれていて、本当にありがたいなぁと感じます。初期の頃から応援してくれている方が、現在の活躍を一緒に祝福してくれるのは、この上ない喜びです。

校歌を5曲制作、9月からは全国ツアーも

――北海道や栃木県の学校などで、校歌制作も行っている半崎さん。その曲数は、栃木市立栃木北中学校の制作で5校目となる。2024年9月20日より開催予定の全国ツアー「『人生案内』と私」では、どのような思いを歌に込めるのか。

今回の全国ツアーのお話をいただいてから、改めて「人生案内」にまつわる皆さんのお悩みやご回答者の言葉に触れて、自分自身がこれまでショッピングモールライブで続けてきた活動と強くリンクしました。ありがたい大役を仰せつかり、背筋が伸びる思いです。悩みのほとんどは人と人との間に起こるものですが、歌も同じく人を介して広がっていくものだと思うので、これまでの経験を生かした自分なりのコンサートができると希望を抱いています。

コンサートの時は、スケジュール的に可能であれば前日には現地入りして、その土地の空気感を味わうようにしています。土地の風土を感じながら、「ここでお話できることはなんだろう」と考え、自分の活動に紐づけていく時間が好きなんです。コンサートが終わったあとも、音響さんなど裏方のスタッフさんたちと終わる時間が一緒になることが多くて。その場に呼んでくれた人たち、企画してくれた人たち、裏側でがんばってくれた人たちとの交流を深めたい思いがあります。ステージのお客様以外にも「ありがとう」を伝えていきたいです。

私の中に、これまでかかわってくださったすべての方と“共に生きている”という思いが強くあります。共に生きている。これまで、言葉にできないお別れを数々経験しましたが、亡くなった方のために生きるのではなく、「故人に支えられて生きている」思いがあります。見えなくてもそこにいる。魂が、存在が、ある。だからやっぱり、そういう思いから生まれた曲が多いのかもしれません。

インタビューを受ける半崎美子さんの横顔

 

校歌の制作に関しては、デビューから8年足らずでこんなにもたくさんのお声がけをいただけるのはありがたいことだなぁ、と。校歌制作のご依頼を受けてからは、その学校に通う生徒さんに話を聞いたり、歴代の文集に目を通したり、校内の風景を見たりと、曲を作るまでの対話に時間をかけています。そこから生まれる形で1曲ごとに丁寧に作っていたら、いろんな学校からお話をいただく機会に恵まれました。

2024年は、上半期だけでも大きな節目となる出来事がたくさんありました。そのうちの1つが、小学5年生の音楽の教科書(教育芸術社)に自分の曲『地球へ』が掲載されたことです。自分の歌が自分自身よりも長生きすること、歌が教科書に載ることが1つの夢だったので、念願が叶い嬉しいです。小学校の特別事業として『地球へ』を子どもたちと一緒に歌ったり、「この曲のメッセージを考える」という音楽と道徳の授業が合わさったような活動もはじめています。未来を担う子どもたちと一緒に、『地球へ』という楽曲を育んでいきたい。そんな思いが、今はすごく強いですね。

これからもたくさんの方々の思いを受け取って、歌にしてお届けできればと思っています。

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