「私の人生、挫折と奇跡の繰り返し」23歳のときに父が破産、事務所から給料未払いを受けたことも…それでも夢グループ・保科有里が「歌手の夢」を捨てなかった理由

《愛人疑惑の真相は…》日本一「愛人」と間違えられる歌手・保科有里が語った「夢グループ社長との“本当の関係”」〉から続く

「安い、やすぅ~い」「社長、ありがとう」――ハスキーな声質と独特なフレーズで夢グループCMを社長と共に盛り上げる、歌手の保科有里。多数のメディア出演、漫画化など、今ではすっかり“有名タレント”の仲間入りを果たした彼女だが、実は売れるまでには数々の困難もあった。彼女が「挫折と奇跡の繰り返し」と語る、その人生とは…。(全2回の2回目/前編を読む

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「安い、やすぅ~い」のフレーズで一躍“時の人”となった夢グループ歌手の保科有里。そんな彼女も売れるまでには数々の困難が… ©石川啓次/文藝春秋

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23歳のとき、父親の店が破産

――毎日のようにCMがオンエアされているので、こうしてお会いすると、「本物だ!」感がすごい……! 「夢グループ」のCMの知名度が高まり、近年はよくモノマネのネタにもなっています。

保科有里(以下、保科) うふふ。でも私の目からすると、モノマネの「やすぅ~い」は何かが違うんです。本当に甘え上手な人がアレをやると、どこか気持ち悪くなっちゃうんじゃないかな。私は自分を殺してやっていますから(笑)。他人に無理を言うのは嫌いなので、本当は「安くして」なんて人生で一度も言ったことがありません。自分が我慢することはできても、誰かを我慢させることは苦手なんです。

 周りの人には「さっぱりした性格だね」と言われることが多いですね。だから家族や友達にCMを見られるのは恥ずかしい……。「仕事だから仕方ないのよ!」と伝えています(笑)。

――保科さんの著書『愛人!? 困っちゃう…』(星雲社)を拝読しました。父親の店が破産するなど、ご苦労されてきたそうですね。

保科 私が23歳のとき、父のクリーニング店が破産しました。資金繰りが厳しくて、父はサラ金15社からお金を借りていたそうです。両親が離婚し、母から「お父さんのことは諦めなさい」と言われましたが、やっぱり父親って自分のルーツでしょう? 病気がちな人で心配だったので、保険料をずっと肩代わりしていました。ほかにも床屋代など、父が亡くなるまで可能な限り援助し続けました。

――保科さんはもともと会社勤めをしていたんですよね。

保科 総務課で給料計算と、代表取締役専務の運転手をしていました。当時の経理はそろばんで、書簡もタイプライター(笑)。9年9か月の会社員生活でした。

――「仕事がデキる人」と評判だったと聞きました。

保科 頼まれたら引き受けちゃうんですよ。せっかく任せてもらえるんだったら、残業してでもこなしたいし、実際に頼まれたことよりプラスアルファ気を利かせたい。あとは上司が相手だろうと、違うと感じたときは反論したい。そんなとき堂々と自分の意見を伝えるためには普段からきっちり仕事しなければ、と考えていました。

アラサーで、歌手を目指して上京

――会社勤めの身からどのようにプロ歌手を目指すようになったんですか?

保科 もともと歌の勉強をしていて、OLをしながらたまに地元・金沢のお祭りとかで歌っていたんです。どうせプロの歌手なんか無理だし、そのまま地元で歌っていくので満足なつもりでした。でも、ある作曲家の先生と偶然出会い、「やる気があるなら上京しますか?」と声をかけていただいて、1990年1月に上京しました。28歳の頃だったかな。

――それだけ聞いたら、「見出されてラッキー」のような印象を受けますが……。

保科 ぜ~んぜん(笑)。かばん持ちと運転手を3年間やって、ついにデビューできることになりましたが、先生から「政治力を使って売り出したりはしない」とはっきり言われていました。デビューはできたものの、曲が難しいのもあって、なんだかマイナス思考の中でのデビューでしたね。デビュー曲も2曲目もさほど売れませんでしたが、その次に平浩二さんのヒット曲『バス・ストップ』のアンサーソングとして『バス・ストップ2』を歌わせていただけました。

 ほかにも所属事務所が給料を払えなくなってきたときは、運良くほかの事務所に拾っていただけたり……。「あと半年やってダメだったら金沢に帰ろう」と引越し業者を探し始めたところで、なんとか首の皮一枚つながることが多いですね。私の人生、挫折と奇跡の繰り返しです。

――愛人キャラで認知されていますが、お話を聞けば聞くほど、真面目な人柄が伝わってきます。むしろ、こんなに真面目な方が20代後半でいきなり歌手を目指したことが不思議というか……。

保科 「ダメでもともと」思考だからこそ、思い切って飛び込めたのかもしれません。母親にそういうふうに育てられてきたんですよ。うちの母親は、子どもを変に持ち上げたり励ましたりするような教育をせず、「どうせ無理なんだから」みたいに言うタイプ。私が上京するのを決めたときも、ずっと「歌手なんてなれるわけない」と反対されていました。

 そういう母のもとで育ったからこそ、「ダメで当然。ダメだったらこうしよう」と常に最悪のケースへの心構えができています。OL時代から結婚式の司会の勉強なんかもしていたので、歌手がダメでも何かしら別の道はあるだろうと思えました。よく器用貧乏だと言われますが、器用で何が悪いんだってね(笑)。「自分に過度な期待はせず、任せていただいたことは一生懸命に頑張ろう」という一心です。

偶然の連続だった社長との出会い

――こつこつ続けていたら通販CMでブレークするのだから、わからないものですね。

保科 年に1度、大阪に吉本新喜劇を見に行くんです。そしたら桂文珍さんが「夢グループ」のCMの話題を出してくださって、「あの社長おもしろいよね。そして、横にいる中途半端に色気のある女性」って。「ここにいます!」と思わず手を挙げたいくらいでした(笑)。予想外の形で注目されることになりましたが、人を楽しませることは好きなので、これはこれで良いと思っています。

「誰が歌っているのか知らないけど、この歌好きだな」みたいに歌が独り歩きするのが夢でした。今は「やすぅ~い」が独り歩きしています(笑)。それに「やすぅ~い」で興味を持って、私の曲を聞いてくださる方もいますしね。自分で言うのもなんですが、切ない歌はピカイチですよ。

――社長に出会っていなかったら、どんな人生だったと思いますか?

保科 歌手を諦めて、地元に戻って、細々と歌の先生でもやっていたかな。歌にこだわりすぎていたら今の私はなかったでしょうし、望まないほうが逆に道は拓けるのかもね。

――そもそも社長とはどのように出会ったのでしょう?

保科 その頃、私は事務所を辞めてフリーの歌手でした。奥様方に歌をご指導させていただいて生活費を稼いでいましたが、いよいよ食べられなくなったら地元に帰るしかないぞと。そこで知り合いのディレクターのSさんに「どこか入れてくれそうな事務所はないですか」と相談していました。それでSさんが社長に声をかけてくださったわけですが、Sさんというのは、社長が狩人さんのレコードを出すときに大変お世話になった方。そんな相手から頼まれては社長も無下にはできません。

 ただ、そのときSさんは、事務所を探している女性歌手を私のほかにも2人抱えられていたんですよね。「女性歌手が3人いるんだけど雇ってくれない?」というSさんの頼みに対して、社長は「3人みんな雇うのは難しいけど、とりあえず近々で歌う人を見に行くよ」と答えられたそうで、そのとき一番近々で歌う予定があったのが私でした。

 私はホテルのラウンジでしっとり歌っていたんですが、社長は海外の賑やかなショーラウンジがお好きなので、内心つまらなかったみたい。だけど私が「よろしくお願いします」と挨拶したのに社長はうっかり「はい」と返事しちゃったものだから、「夢グループ」に入れるしかなくなっちゃった(笑)。人生わからないものですね。もしも偶然が重ならなかったら……と想像すると、ぞっとしますよ。

(原田イチボ@HEW)

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