上田正樹「歌のために風呂桶1つと2万円で家出、ホームレス生活を経て50年、やっと今スタートラインに」

上田正樹さんの写真

(撮影:本社・奥西義和)
『悲しい色やね』の大ヒットで知られる難波のレジェンド、上田正樹さん。
1974年 伝説のスーパーバンド"上田正樹とサウストゥサウス"を結成し、当時のバンドブームを牽引したR&B・ソウルシンガーであり、ソングライターだ。活動50周年を迎えた今年、9月27日に渋谷さくらホールにて一夜限りのスペシャルライブを開催する。7月で75歳になったが、歌う意欲は年々増すばかり。「今、やっとスタートラインについた」という上田さんのこれまでの歩みと、今回のライブへかける思いを聞いた。
(構成◎岡宗真由子 撮影◎本社・奥西義和)

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【写真】ロングヘアにギター、若い頃の上田さん

絶対に音楽をやるんだという炎

18歳の時、イギリスのロックバンドThe Animalsのライブに行きました。

僕の友人が急遽来られなくなった自分の彼女の代わりにと、軽い気持ちで誘ってくれたライブです。

The Animalsはもともとブルースの影響を色こく受けたバンド。「朝日のあたる家」が有名なんですけど、僕は「Boom Boom」という曲にやられてしまった。アメリカのブルース・シンガー、ジョン・リー・フッカーの代表曲のカバーです。

身体の全細胞が震えているくらいの衝撃が走り、自分も絶対に音楽をやるんだという炎が胸に灯ってしまった。それが今日まで消えることがありません。

今でも大阪がマイホームタウン

僕には京大卒の父がいて、その父が結核で若くして亡くなり、母はまた京大卒の医師と再婚しました。学生時代の僕は「父が京大なら自分は東大卒の医師になる」と心に決めて猛勉強をしていたんです。それをライブの次の日から放り出して、学校では禁じられていたバイトを始め、安い中古のギターを買った。そのギターを玄関の外に隠しておき、兄貴のへそくり3万円をこっそり頂戴して、下着とタオルと桶を片手に玄関で言いました。「ちょっと風呂へ行ってくる」。そこから家出して、暮らしていた京都を離れ大阪に向かい、6年間家に帰ることはありませんでした。

大阪では天王寺公園でホームレス生活です。路上でギターを弾きながら半年間を過ごしました。毎日のようにライブハウスやディスコを訪ね「シンガーとして雇ってもらえませんか?」と言って回る。いよいよ所持金があと30円で底を尽きるという日に行ったミナミのライブハウスで、「わかった、じゃあ弾いてみい」と言われるんです。忘れもしない、エディ・フロイドの「Knock on Wood」というアメリカ南部のR&Bの定番曲を弾き語りしました。

弾き終わると「明日から来い」と言ってもらえた。そして月々払うと約束してくれた5000円を「必ず来いよ」と、先払いしてくれたんです。「やったーーーー!」と叫びながら公園まで帰りましたね。嬉しくて嬉しくて「明日から俺はシンガーや」と、仲間に言って回りました。そこから釜ヶ崎の、月3000円で暮らせる共同炊事共同トイレの住居におさまります。月々残るお金は2000円なのだけれど、釜ヶ崎にいると、近所のおばちゃんが夕飯時に「これ食べる〜?」と言っておかずを差し入れてくれる。だからお米だけあればなんとか凌げた。公園生活から始まって、大阪の人たちの人情に毎度毎度、助けられました。僕は生まれも育ちも京都ですが、今でも大阪こそが僕の「マイホームタウン」だと思っています。

何年かライブハウスで歌っていると評判になり、テイチクのプロデューサーに誘われて1972年にデビューすることになりました。「金色の太陽が燃える朝に」というデビュー曲はやなせたかしさんの作詞です。そのドーナツ盤(EPレコード)をもってやっと家に帰ることができました。兄貴からは「長い風呂だったなぁ」と言われましたね。(笑)

1972年にソロデビューした後、1974年に"上田正樹とサウストゥサウス"を結成する。関西のソウルシーンで活動していた上田正樹を中心に結成されたバンドで、メンバーは上田正樹(うえだ まさき vo)、有山淳司(ありやま じゅんじ g)、堤 和美(つつみ かずみ g)、中西康晴(なかにし やすはる kb)、藤井 裕(ふじい ひろし b)、正木五郎(まさき ごろう d)。1975年にアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』をリリースし、その熱狂的なステージで人気を博した。また、彼等のライヴのアコースティックパートの空気感を伝えるアルバムとして、上田正樹と有山淳司名義の『ぼちぼちいこか』をリリース。1976年に解散している。

サウスの写真

伝説のスーパーバンド"上田正樹とサウストゥサウス(写真提供◎上田さん)

その後はレコード会社に所属して活動していました。でも言われるがまま歌謡曲を歌うのは違うんじゃないかと思い始めて、「今日辞めよう、今日こそ言うんだ」と思っていた矢先に「悲しい色やね」を渡されました。それが大ヒットしてしまって、当時はとても戸惑いましたね。ただ今となってはR&Bの魂で「悲しい色やね」を歌うことができます。歌謡曲を外から批判することもしたくありません。

師匠レイ・チャールズと対談

僕はアメリカのR&Bを代表するレイ・チャールズという人を師匠と慕ってきました。本当の“天才”、“genius”という言葉は彼のような人のためにあるのだと思います。ご存じの方も多いと思うのですが、レイ・チャールズは目が見えません。それなのにピアノの前に座って、高いところから指を思いっきり振り下ろしても、最初の1音が正しく始まり、間違って弾くことがない。

毎回、どんな曲であっても彼なりのアレンジが加えられており、その微妙な旋律は複雑すぎて譜面に起こすことができないんです。彼はビッグバンドと演奏していても、突然「そこのギターの3弦が低い!」などと言って演奏を止めさせることがある。数えきれない音の中から違和感を拾える耳の良さを持っているのです。100回以上彼の公演を聴きましたが彼のパフォーマンスに飽きることはありません。

彼のファンだった私は、何回かレイ・チャールズに会って対談をする機会もいただきました。日本のホテルで会いましたが、「さぁ、ここに座って」と僕を案内してくれる。慣れた空間では、まるで目が見えているように振る舞うんです。その様子は「見えてるんちゃうか?」と疑いたくなるくらい。(笑)

最初の対談の時、26歳くらいだった僕は「音楽はあなたにとって何ですか?」と聞きました。レイ・チャールズは「音楽は僕の血のようなものだ」と迷うことなく答えました。当時の僕は、自分は音楽を好きではいるけれど、そこまで言い切ることはできないと、師匠の言葉に圧倒されたのを覚えています。あれから50年、音楽を続けてきて、僕も今同じことを聞かれれば「僕の肉体に染み付いてるものだ」と答えられるようになりました。

50年経ってやっと「スタートラインに立てた」と感じています。ずっと聴きに来てくれているオーディエンスの方には、「今が一番声が出ているね」と言われるんです。

上田正樹さんの写真

(撮影:本社・奥西義和)

若かりし頃、スティービー・ワンダーを指導していたボイストレーナーにアドバイスをもらえる機会があって、その時に「背骨を使って歌え」と言われました。当時はなんのことだかさっぱりわからなかった。それが20年以上経ってからライブの最中に「あ、このことか」と分かったんです。それまでは咽喉にポリープができたり、声が枯れてしまうことがあったのに、“背骨を使う”感覚を掴んで以来、歌っていて喉が不調になることがなくなった。

あらゆることを試し、いろんな道を通った結果、R&Bの本質はグルーヴと言われるリズムに宿っているんだなということがわかりました。「〜の、ようなもの」ではなく、僕はR&Bのど真ん中をやりたいんです。

R&Bに国境はない

長く活動をしている中で、世界中で演奏させていただいています。そこで感じるのは、やはり一流の音楽は国境や言語の壁を簡単にこえるものだということ。会ったその日にその場でセッションすることができる。これまでアメリカ、アフリカ、アジアのいろんな国を渡り歩いてきました。

上田正樹さんの写真

(撮影:本社・奥西義和)

ミシシッピでは、本場のR&Bに触れましたし、その源流を求めてアフリカにも行きました。彼らは言語の前にリズムや踊りがあって、生まれながらに裏拍のリズムを刻むことができる。インドネシアでは、しばらく暮らして現地の歌姫REZAと歌った「Forever Peace」が、現地のヒットチャートで17週連続1位を記録しました。韓国のプロデューサーからもオファーをいただいて、僕は韓国でもアルバムデビューしているんです。シングル「Hands of Time」は運よく視聴率30%以上のドラマ『ゴースト』の主題歌に使っていただき、デビューアルバムは20万枚のセールスでした。韓国語でも歌えと言われて、なかなか発音がうまくいかず何十回も録り直したことも。そっちは結局、リリースされず没になってしまいましたけど。

一方で聞いたことのない町に行ってライブをして、お客さんが全く集まらないような経験もしました。それも、今ではいい思い出です。

一緒にこの度のライブで歌ってくれるYoshie.Nは、タイの3000人くらい収容できるライブハウスで熱唱して満員のお客さんに涙を流させていました。彼女は日本を代表するブルースの歌手ですが、タイでは有名というわけではありません。音楽は有名、無名に関わらず、一流であればそこにいる人たちの心を動かすことができる。タイでYoshie.Nがそのことを証明しているのを目の前にして、僕は参観に来た父親みたいに感無量でした。

文化になるまで絶対死なないで歌い続けるのが僕の役割

18歳のあの日から、音楽以上にやっていて楽しいことには出会えませんでした。辛い時もありましたけど、歌いたい意欲は高まるばかりです。離婚して今は一人暮らしなので、夜中にガバッと起き出してジャンジャンとピアノを弾くこともできる。旋律が降りてくる瞬間は時間も場所も選ばなくて、夜中だったり出かけている時だったりする。居酒屋だったら慌てて箸袋に書いてみたり(笑)。100曲くらいのプロットがあるので、まずはそれを仕上げていく作業もしなくてはいけません。

京都大学西武講堂でのライブの写真

1990年サウス・トゥ・サウス再結成の京都大学西武講堂でのライブの写真(撮影:内田浩一)

9月27日に行うライブは、かつてはライバルだった人間にゲスト出演してもらいます。今となっては最高の仲間、ウエスト・ロード・ブルース・バンドのボーカル、永井“ホトケ”隆とギタリストの山岸潤史です。僕のバンド、サウス・トゥ・サウスからは有山じゅんじが出てくれます。どちらのバンドも盟友が何人か亡くなってしまいました。今は、彼らの思いも全部背負ってのライブだし、音楽活動だと思っています。今元気でいる仲間たちの生存確認を兼ねて毎年ライブをやる約束をしました。この仲間たちとこれから日本だけでなく、世界も回って行きたい。

健康に気遣ってる方ではないのですが、生まれつき肝臓が丈夫らしいんです。毎年の検診で、「肝臓の数値いいですね」って言われるとついついその後たくさん飲んでしまう。逆に検診を受けない方がいいかなと思うくらいです。(笑)

上田正樹さんの写真

(撮影:本社・奥西義和)

そして何より、ライブをやると、元気になる。今回もそうですけど、僕のライブのメンバーは世界中で通用する超一流ばかり。だからこそ今回のライブではR&Bの間口を広くして、いろんな人に聴いてもらいたい。僕はR&Bっていうジャンルの音楽が文化になるところまで見届けたいんです。R&Bを知らないという人も、難しく考えず、ぜひこの機会に僕らのライブに足を運んでみてください。

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