『光る君へ』藤原兼家も息子の道隆も、愛する女性の和歌とともに旅立った。道長の最期はどう描かれるのか?

赤染衛門の歌碑

百人一首に入っている赤染衛門の和歌「やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな」の碑(撮影・筆者 以下同)
NHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代の京都。そのゆかりの地をめぐるガイド本、『THE TALE OF GENJI AND KYOTO  日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(SUMIKO KAJIYAMA著、プレジデント社)の著者が、本には書ききれなかったエピソードや知られざる京都の魅力、『源氏物語』にまつわるあれこれを綴ります。

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【写真】清少納言の歌碑は、もはや岩?相棒の愛犬と

前回「『光る君へ』の重要なシーンにも使われる和歌。紫式部の家系には意外な親戚や、百人一首でおなじみの有名歌人がずらり!百人一首が生まれた地は?」はこちら

百人一首の魅力を伝える美術館

本連載でも度々紹介しているように、嵯峨嵐山界隈には、紫式部ゆかりの場所がいくつもあります。そんな縁からでしょうか。現在、京福電鉄(通称・嵐電)嵐山駅3階で「めぐり遭ひて、紫式部展」が開かれています(入場無料、12月中旬まで)。

『光る君へ』の登場人物の等身大パネルなども置かれていますが(なぜか、一条天皇・定子・ききょう/清少納言・安倍晴明という渋めのメンバーです)、立ち寄る人もまばら。帝のパネルが心なしか寂しそうに見えます。

私の目を引いたのは、「紫式部をめぐる人々」という展示。百人一首の何番を詠んだとか、三十六歌仙のひとりとか、人物相関図に独特の解説がついているのです。

それもそのはず、この資料を提供したのは、嵯峨嵐山文華館。小倉山のふもとにあるこの美術館では、小倉山ゆかりの「小倉百人一首」の歴史や魅力を紹介する常設展を開いているのです。(「小倉百人一首」の成り立ちについては、本連載12回を参照)

百人一首といえば、かるたを連想しますが、「坊主めくり」でもおなじみの、絵入りの「歌かるた」が誕生したのは江戸時代になってから。やがて庶民にも広がって、札を取る速さを競う「競技かるた」も生まれたとか。

2階のギャラリーは畳敷の広間になっていて、なかなかの壮観。競技かるたの大会「ちはやふる小倉山杯」もここで開催されます。『ちはやふる』のマンガや映画でかるたの世界にハマった人に、お薦めしたい美術館です。

嵯峨嵐山文華館

「小倉百人一首」の魅力を紹介する嵯峨嵐山文華館

嵐山の公園で百人一首の歌碑めぐり

嵯峨嵐山文華館の近隣の公園には、「小倉百人一首」の歌碑100基が数か所に分散して建てられています。正式には「小倉百人一首文芸苑・屋外展示」と呼ばれるもの。さすがは「小倉百人一首」発祥の地、と言いたいところですが、私が見る限り、この歌碑に目を留める人はほとんどいないようです。

実を言うと、私自身も以前は、「なんだろう、この石。ああ、歌碑か……」くらいの関心しかありませんでした。ところが、『光る君へ』や本連載の執筆をきっかけに、この歌碑の見方が徐々に変わってきたのです。

歌を詠んだ平安京の人たちも、この場所に立って、嵐山の紅葉に感動したり、渡月橋の上にに浮かぶ月を見て誰かを想ったりしていたのだな――そんな心持ちで歌碑を眺めると意外に味わい深く、ワンコとの散歩がてら“歌碑探し”を楽しんでいます。

そう、歌碑めぐりではなく、“歌碑探し”。広範囲に点在する100基のなかから、『光る君へ』に関連した歌人の歌碑をゲーム感覚で探し当てるのです。

小倉百人一首文芸苑・屋外展示(奥野々宮地区)の案内図

竹林の近くにある小倉百人一首文芸苑・屋外展示(奥野々宮地区)の案内図

歌碑めぐりマップを表示したスマホを手に、現地の案内図も確認しながら探すのですが、これがなかなかに難しい。「これだ!」と思ったものが別の歌碑だったりで、あっちをウロウロ、こっちをキョロキョロ。犬を連れていなかったら、不審に思われそうです。

この連載のために「写真を撮らねば!」との気持ちも手伝って、お目当ての歌碑を、意地になって探してしまいました。

今生の別れに「あの歌で、貴子と決めた……」

無事に探し当てた歌碑のなかから、ドラマにも登場する歌人のものを、いくつかご紹介しましょう。

まずは、ヒロイン・紫式部の歌碑のある「長神の杜(ちょうじんのもり)」地区へ。常寂光寺と二尊院の間という立地ですが、入口が目立たないせいか、ここはいつも閑散としています。怖いぐらい誰もいない、と言っていいほど。なかに入れば、紫式部の歌碑(57番)は比較的見つけやすいと思います。

この地区には、前回(本連載12回)紹介した曽祖父・兼輔(中納言兼輔)の歌碑もあるのですが、注目したいのは、儀同三司母の歌碑(54番)。ちょうど紫式部の向かい側あたりに位置しています。

儀同三司母って誰? 『光る君へ』に出てないよね? と思った方もいるのでは。儀同三司母という呼び名ではピンとこないかもしれませんが、実は、この女性は高階貴子。道長の兄・道隆の妻で、伊周や定子らの生母です。ドラマでは板谷由夏さんが演じていました。儀同三司(ぎどうさんし)とは、伊周が自称した准大臣の異称で、伊周のことを指すそうです。

「忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな」 

あなたが私のことを忘れないとおっしゃったその言葉も、遠い未来まで守られるとは信じがたいので、今日までの命であってほしい、といった意味。いっそ、幸せの絶頂の今、死んでしまいたい、という女心です。のちに夫となった道隆が、貴子のもとに通い始めた頃に交わした歌のようです。

儀同三司母(高階貴子)の歌碑

道隆の妻・儀同三司母(高階貴子)の歌碑

『光る君へ』にこの歌が登場したのは第17話。井浦新さん演じる関白・道隆の最期が描かれた回でした。

息が絶える前、道隆は思い出話を始める。「そなたに会ったのは、内裏の内侍所であった。スンと済ました、おなごであった」。その言葉を受けて、貴子はこう返す。「道隆様は、お背が高く、キラキラと輝くような殿御でございました」

道隆は続ける。「忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな……。あの歌で、貴子と決めた」 

きらめくような若き日々を語り、道隆は貴子に見守られて逝く。息子に権力を継がせるため、強引なこともしてきた道隆ですが、散り際の夫婦愛には泣かされました。

まひろに影響を与えた右大将道綱母

次に、亀山公園(嵐山公園・亀山地区)へと向かいましょう。

常寂光寺前を南へ下り、小倉池を経て、観光客がひしめく竹林の小径の出入り口を過ぎると、公園の入口に到着(大堰川のほうから登ってくるルートもあります)。春は桜が美しく、展望台から嵐山や保津峡の絶景が楽しめるこの公園は、嵐山観光の穴場です。

展望台から見た保津峡

亀山公園の展望台から見た春の保津峡

公任、赤染衛門、清少納言、和泉式部はじめ、『光る君へ』の登場人物の歌碑の多くが、ここに集まっています。

公園内はかなり広く、起伏に富んでいるため、体力を消耗しますが、お目当ての歌碑が見つかったときの達成感はなかなかのもの(あくまで個人の感想です)。興味のある方は、次の嵐山観光の折に挑戦してみてはいかがでしょうか。

ついでながら、この世とあの世を行き来して紫式部を救ったとの伝説の残る小野篁(本連載9回で紹介)や大弐三位(紫式部の娘)の歌碑もこの地区で見つかります。形状やスタイルも100基それぞれに違っていて、清少納言のものはかなりのインパクトです。

主要な登場人物のなかで、いちばん見つけやすいと思ったのは公任(大納言公任)の歌碑ですが、その近くにある右大将道綱母も忘れてはいけません。

道綱母といえば、道長の父・藤原兼家の愛妾で、『蜻蛉日記』の作者としても有名です。『光る君へ』では財前直見さんが演じていました。石山寺で出会ったまひろ(紫式部)に、「日記を書くことで己の悲しみを救った」と、妾の立場のつらさと文学の力を語った場面も印象的でしたね。

「小倉百人一首」に選ばれたのも、『蜻蛉日記』のなかの歌です。

「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る」 

あなたが来ないのを嘆きながら、ひとりで寝る夜が明けるまでの時間がどれほど長いものか、あなたは知っていますか(きっと、おわかりではないでしょうね)といった意味。浮気性の兼家に向けた、恨みたっぷりの歌です。

他の女性に心が移り、自分から足が遠のいた兼家。悔しさから、せっかく兼家が訪ねてきても門をなかなか開けずにいたところ、別の女の家に行ってしまった。そこで、「門が開くまでの、わずかな時間も待てないの?」という皮肉を込めて詠んだ歌。「私はこれほど待っているのに!」ということでしょう。

『蜻蛉日記』が伝える兼家の「輝かしき日々」

兼家との結婚生活の悩みや苦しみを綴った『蜻蛉日記』。『蜻蛉日記』がなければ『源氏物語』も生まれなかっただろうといわれるほど、当時の人々に大きな影響を与えた作品です。

『光る君へ』の序盤でも、倫子が結婚前に開いていた勉強会で、この『蜻蛉日記』が題材になっていました。そのとき、まひろは、「これは女の嘆きを綴ったものではなく、身分の低い自分が高貴な男性に愛されて、激しく生きた、という自慢話では?」などと鋭く分析していましたね。

興味深いのは、嫉妬に苦しむ己の姿を綴れば綴るほど、結果として、兼家の色男ぶりが強調されること。兼家の不遇を描かず、着実に昇進してゆく華やかな姿だけを記している、との評もあり、作者には、自分の愛した兼家の栄光を記録したい、という思いもあったのかもしれません。

右大将道綱母の歌碑

兼家の妾、右大将道綱母の歌碑

そんなことを踏まえつつ、先の「嘆きつつ……」の歌が登場したドラマのシーンを振り返ってみましょう。

兼家の死を描いた第14回。死期の近づいた兼家は、愛妾(道綱母)の前で、彼女の和歌を詠み上げ、「あれは良かったのう……。輝かしき日々であった」とつぶやいて、満足そうな表情を浮かべたのです。人生の最後にあの歌を思い出したのは、浅はかなモテ自慢ではなく、彼女の文才を称え、お互いにとっての「輝かしき日々」を懐かしみたかったからではないでしょうか。

兼家も息子の道隆も、愛する女性の和歌とともに旅立ちました。では、もうひとりの息子・道長の最期はどう描かれるのか。少々気が早いですが、大いに気になるところです。

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