『光る君へ』百人一首が生まれた地はどこ?紫式部の家系をたどると、意外な親戚や、百人一首でおなじみの有名歌人がずらり

天皇も愛でた錦秋の嵐山

天皇も愛でた錦秋の嵐山。この風景は数々の和歌に詠まれた(撮影・筆者 以下同)
NHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代の京都。そのゆかりの地をめぐるガイド本、『THE TALE OF GENJI AND KYOTO  日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(SUMIKO KAJIYAMA著、プレジデント社)の著者が、本には書ききれなかったエピソードや知られざる京都の魅力、『源氏物語』にまつわるあれこれを綴ります。

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【写真】あの小倉山ってどれ?渡月橋付近の夕景

前回「『光る君へ』では退場間近の安倍晴明。晴明神社だけじゃない!嵐山にある、知られざるゆかりの地と、晴明伝説の舞台、遍照寺を訪ねて」はこちら

紫式部の親族は和歌の名人だらけ

『光る君へ』には和歌がよく登場します。恋愛だけでなく、政にも和歌が重要な役割を果たした平安時代が舞台なので、当たり前といえば、当たり前ですが、テレビドラマとしてはなかなか異色といえるでしょう。

「黒髪の みだれもしらず うち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき」
和泉式部(あかね)が、自作の恋歌を妖艶なジェスチャー付きで読み上げたのも印象的なシーンでした。 

「乱れた黒髪」から連想される官能的な一夜。この髪をかき撫でてくれた人が恋しくてたまらない――。『枕草子』の感想を問われ、この歌のような「人肌のぬくもり」がないから、胸に食い込んでこないと、まひろに語ったのでした。そんなアドバイスがあったから、稀代の色男という光源氏のキャラクターが生まれたのでしょうか。

いよいよ『源氏物語』の執筆も始まりました。「私もいつか、あんな美しい紙に歌や物語を書いてみたい」と言っていた高級越前和紙を、道長からどっさりプレゼントされて、やる気も十分といったところ。

推敲に推敲を重ねるなど、作家らしいこだわりも見せるように。まひろ自身の体験はもちろん、道長、一条天皇らの人生を、どのように物語に落とし込んでいくのか、期待が高まります。

ご存じのように、『源氏物語』のなかにも、和歌が随所に織り込まれています。

紫式部は、『源氏物語』の作者としてだけではなく、すぐれた歌人としても名を残しました。それもむべなるかな。親族には大歌人がずらりと並んでいるのです。

紀貫之と和歌を詠み合う

大叔父にあたる藤原清正(きよただ)も、曽祖父の藤原兼輔(かねすけ)も、三十六歌仙(藤原公任が選んだ平安時代の和歌の名人36人)のひとり。兼輔の歌は「小倉百人一首」にも採録されています(27番)。

「みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ」 中納言兼輔(藤原兼輔)

みかの原から湧き出て流れる泉川の「いつみ」という言葉のように、いったいあなたをいつ見て、こんなに恋しいのだろうか、という意。一度も会ったことがないのに、相手に恋焦がれているという歌です。

この歌が、紫式部のひいおじいちゃんの作だったとは……。祖父の雅正(まさただ)も歌人として知られ、兼輔の屋敷(のちに紫式部も住んだ場所です)には、やはり三十六歌仙の紀貫之らが集い、和歌を詠み合っていたようです。

紫式部の曽祖父・兼輔の邸宅址とされる廬山寺

紫式部の曽祖父・兼輔の邸宅址とされる廬山寺。兼輔の屋敷には紀貫之ら、一流歌人が集ったという

ドラマでも、こうしたつながりを意識したのでしょうか。公任の妻(役名は敏子)が主宰する四条宮の学びの会で、まひろが紀貫之の有名な歌を題材に和歌を教えるシーンもありました。

「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」 紀貫之

こちらも「小倉百人一首」の一首(35番)。人の心は、どうだかわからないけれど、昔なじみのこの土地(奈良)では、梅の花だけが、昔と同じ香りをただよわせています、といった意味です。

家系をたどるとみんな親戚?

ついでにいうと、雅正の妻(つまり紫式部の祖母)の父親であり、兼輔の従兄弟にもあたるのが、歌人としても名高い右大臣・藤原定方(さだかた)。定方の歌は「小倉百人一首」にも入っています(25番)。

「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」 三条右大臣(藤原定方)

逢坂山のさねかずらの名が、恋しい人に「逢って」「寝る」ことを暗示するのなら、さねかずらをたぐり寄せるように、人に知られずに、あなたを連れ出す手立てがないものだろうか。そんな人目を忍ぶ恋の歌で、さねかずらは「小寝(さね)」(一緒に寝る、一夜を過ごす)に掛けられています。

小倉山のふもとにある三条右大臣(藤原定方)の歌碑

小倉山のふもとにある三条右大臣(藤原定方)の歌碑

定方は醍醐天皇の叔父(姉が宇多天皇女御で、醍醐天皇の生母)にあたり、醍醐天皇の外戚として出世しました。また、紫式部の夫、宣孝(のぶたか)は、定方の直系の子孫(ひ孫)です。

家系図を見ていると、みんながどこかでつながっていて(たとえば、公任の妻は村上天皇の孫なので、醍醐天皇のひ孫となり、定方につながります)、頭がこんがらがってきます。

さらに、定方の孫の穆子(むつこ/『光る君へ』では石野真子さんが演じています)は、道長の正妻・倫子の母となったため、中宮・彰子にもつながっていくという具合……。

複雑すぎてクラクラするので、家系図を精査するのはこのくらいにして、「小倉百人一首」との関わりに話を移しましょう。

先に紹介した曽祖父の兼輔や定方のように、「小倉百人一首」には、紫式部の親類縁者の和歌がいくつも採録されています。紫式部自身や、娘の大弐三位(だいにのさんみ、賢子)の歌もしかり。

それだけではなく、公任や赤染衛門、清少納言、和泉式部など、『光る君へ』に登場する人々の歌もたくさん選ばれています。そう考えると「小倉百人一首」が急に身近なものに感じられるから不思議です。

小倉山の山荘で編纂された「小倉百人一首」

一般的には、かるたでおなじみの「小倉百人一首」。昔、学校で習った、暗記した(させられた?)という人も多いのでは。

『古今和歌集』『新古今和歌集』など、天皇の命により編纂された歌集から、100人の歌人の歌を1人1首ずつ選んだもので、その成立はおよそ800年前。歌人・藤原定家が、小倉山の山荘で編纂したといわれています。定家自身の歌もしっかり入っているのは、自信の表れでしょうか。

小倉山で編まれたから「小倉百人一首」と呼ばれるのですが、さて、その小倉山はどこにあるかごぞんじですか。

実は、嵯峨にあるのです。この連載では嵯峨嵐山界隈をよく取り上げていますが、平安時代や紫式部に関連した場所や行事がそれだけ残っているということでしょう。平安貴族に愛されたこの地の魅力を、あらためて感じます。

ざっくり説明すると、渡月橋のかかる大堰川(桂川)をはさんで、南側にあるのが嵐山、北側にあるのが小倉山。こんもりした形の低い山で、眺めていると穏やかでやさしい気持ちになります。そんな雰囲気が、平安文化の風雅に合っていたのでしょうか。

常寂光寺の境内をはじめ、小倉山のふもとには、定家の山荘の跡地と伝わる場所が数か所あります。真偽のほどはわかりませんが、どこも「いかにも……」と思わせる風情を漂わせています。

道長の曽祖父が歌に詠んだ小倉山

小倉山を詠んだ歌では、「小倉百人一首」(26番)の貞信公(ていしんこう)=藤原忠平(ただひら)のものが有名です。

「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」

美しい小倉山の紅葉よ。もしも人の心が分かるなら、もう一度天皇がお出ましになるまで、どうか散らずに待っていておくれ。そんな意味ですが、実はこの歌は、「紅葉は今が盛りです。今のうちに、行幸されてはいかがでしょうか」と、醍醐天皇に紅葉見物を勧めるためのものだったとか。

藤原忠平は、藤原氏全盛の礎を築いた人物で、道長の曽祖父にあたります。この頃から、紅葉の季節には、天皇の大堰川への行幸が行われていたようです。

貴族だけでなく、天皇もわざわざ足を運んだ紅葉の名所。今も昔も、嵐山や小倉山の景色には、人の心を打つものがあるということでしょう。

小倉山のふもとから見る大堰川

小倉山のふもとから大堰川を望む。翡翠色の水と紅葉の色のコントラストが美しい

小倉山といえば、もうひとつ有名なものがあります。和菓子などに使われる「小倉あん」は、この小倉山が発祥の地だと言われているのです(ただし諸説あり)。

二尊院には「小倉餡発祥之地」という石碑も建っています。

そこに書かれた由来によると、日本で初めて小豆と砂糖であんが炊かれたのは、平安初期の820年のこと。小倉の里に住んでいた和三郎という菓子職人が、空海が809年に中国から持ち帰った小豆(大納言小豆)の種子を栽培し、嵯峨天皇から賜った砂糖を加えて煮つめ、天皇に献上したのが始まりだとか。当時、砂糖は貴重品だったので、甘いあんを食べることができたのは、皇族や上流貴族に限られたようです。

つまり、紫式部の時代には、小倉あんは存在したことになります。さて、一条天皇や中宮・彰子は小倉あんを召し上がったのでしょうか。

「小倉餡発祥之地」の石碑も建つ小倉山二尊院

「小倉餡発祥之地」の石碑も建つ小倉山二尊院

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