坂口涼太郎、原点を振り返る「朝ドラ4作品出演で、声をかけられるように。仕事がなかった時、おかっぱヘアでオーディションに合格」
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【写真】レオタードを着て、ちゃぶ台の上で踊っていた2歳の頃の坂口さん
変身願望から俳優の道へ
今日の衣装のテーマは「ご婦人」。『婦人公論』を意識して、ご婦人といえばパールでしょうと(笑)。パールって素敵ですよね。
朝ドラに出演させていただいたことをきっかけに、僕を知ってくださった方が多いのかもしれません。これまでに、『なつぞら』『エール』『おちょやん』『らんまん』と、4つの作品に出ています。街を歩いていても、母親世代の方に声をかけていただく機会が増えました。
朝ドラの中でも、『エール』で演じたヒロインのお見合い相手役は、バラをくわえていてインパクトが強かったのか、今でも覚えてくださっている方が多いんです。一話出演しただけなのに不思議でした。
出演シーンの短い作品が多かったのですが、直近の『らんまん』は初回から出演させていただき、主人公の生家「峰屋」の分家の息子・伸治を演じました。お父さん、叔父さんとともに本家を目の敵にする「意地悪三人衆」の一人(笑)。
でも、全員が同じだと面白くないなと思って、世間のことについていけない、ちょっとヌケている子、というイメージの人物に。そこを監督や脚本家が面白がって後半のシーンに反映させてくださったことが、俳優としてとても嬉しかったです。
ドラマはいろんな登場人物の人生がぶつかるカラフルな場。たった1回しか出てこない役でも、それまでの背景を自分の中で練り上げて演じます。その時に思い浮かべるのが、友人や親戚、同じ電車に乗り合わせたり街ですれ違ったりした人たち。
ふだんからそうやって「人間採集」をしているんです。彼らをモチーフに仕草などを真似てみて、「なんかこういう人いるかもな」と言われるような、自分ではない人間に変身する。それが演技の楽しさです。
変身願望は、実は子どもの頃からありました。コンサートやミュージカルを観に行っては家でちゃぶ台に乗って、歌い踊る。1歳とか2歳とか、物心がつく前からやっていたみたいです。
ずっと、両親が好きで僕を連れて行ってくれていたんだろうと思っていたのですが、どうやら僕の反応がいいので行くようになったと、最近母から聞いてびっくり。1歳くらいの時に行ったディズニーランドのパレードを皮切りに、ひとりっ子の僕に子ども向けのショーからサーカスやバレエまで、いろいろなものを積極的に見せてくれました。
幼稚園時代の夢は「サーカス団の人」。ちゃぶ台だけでなく、祖母がやっていたスナックでも歌って踊って拍手をもらう。そんなちびっこでした。
夢が動き出すきっかけとなったのが、9歳の頃に住んでいた神戸で観た劇団四季の『キャッツ』。
僕は5歳から7歳くらいまでひどいアトピー性皮膚炎でした。自分でもひどい肌荒れだと思っていたけれど、小学校の入学式で握手をする時、同級生にアトピーの肌を指さされて、「それ、触ってもうつらないよね?」と言われて。とっさに、「うつらないから平気だよ」と笑って答えたけれど、「僕は人が触りたくないと思う人間なんだ」と思ってしまったんです。
その思いが根底にあって『キャッツ』劇中歌の「メモリー」を聴いた時、僕は号泣したんです。ボロボロの衣装の娼婦猫が、自分に触ってほしいと歌うのを聴き、心に蓋をしてきた「触れてほしい」という願いが歌われたようだと感じました。
『キャッツ』を観て以来、自分もミュージカルの舞台に立ちたいと思って、劇団のオーディションを受けようかなと考え始めました。
でも、何でも億劫がる性格が災いして、すぐには動き出さず……。見かねた母が「あなたがやりたいのはお芝居じゃなくてミュージカルでしょ」と言って、「歌は得意だと思うけど、踊りもできなきゃダメだから」と、地元のダンス教室を探してくれました。
そうして通い始めたのが、森山未來さんのご両親が営むスタジオ、モダンミリイでした。
踊っている姿が喋りたそうで
僕は高校入学のタイミングで神奈川に引っ越すことになったので、モダンミリイに通ったのは、中学2年生からの1年間だけ。それでも、モダンミリイは僕にとって大きな存在でした。スタジオの『戦争わんだー』(07年)という公演が、僕の初舞台になったのです。
未來さんのお母さんからオーディションを受けませんかというお手紙をいただいて。合格し高校2年生の夏休みに一人で神戸に行って、森山家に居候させてもらいながら稽古をして、本番を迎えました。
この時演じた役は、スズメ。公園でスズメの歩くリズムや動きを懸命に観察して模倣しました。それでも、スズメがおじいちゃんに蹴られるシーンが、何度やってもうまくできない。
演出の未來さんが見本を見せてくれた際、ドーンと粉砕骨折したみたいな音がするほど激しく倒れ込んだんです。表現するって大変なんだなって茫然としました。
でも、迎えた本番。お客さんの拍手を受けた瞬間、こんなに幸せなことはない、こういうことを僕はやっていきたいと強く感じました。
この時出演なさっていた八十田勇一さんが、僕の踊っている姿を見て「すごく喋りたそうに見えた」からと、「俳優になれば、ダンスもできるし、セリフも言えるよ」と言ってくださったんです。
オーディションを受けて八十田さんと同じ事務所に入り、18歳の時に俳優になりました。
遠回りして気づいた自分らしさ
その後、1年くらいはまったく仕事がありませんでした。オーディションを受けてもさっぱり受からない。でも僕は「適当」という言葉が好きなんです。目標や課題がある時には全力で一生懸命やるけれども、オフの時は頑張らず、適当でいることが大事かなと思っているから。それでせめて自分の好きなことをやろうと思って、服飾の専門学校に入りました。
そんな生活が続いたある時、髪形を変えたら、急にオーディションに受かるようになったんです。アルバイト先に、髪が耳にかからないようにと言われて、初めて行く美容室で切ってもらったら、おかっぱにされただけなんですけどね。でも、自分で見ても似合っていた。
思い返すと、オーディションに受からなかった時期は、自分の何がダメなんだろうということばかり考えていました。どんな髪形をして何を着てどう受け答えすれば気に入られるんだろうと。就活みたいですよね。
でも、自分に似合うヘアスタイルを見つけた途端、合格するようになった。だからそれからは、「自分はこういう人間です。役と合っていたら選んでください」という気持ちでオーディションに臨むようになりました。
演じる時には、「僕を好きなように料理してください」とスタッフの皆さんにお任せして。坂口涼太郎というコンテンツの幅を楽しんでもらえたらと、今は思っているんです。
俳優以外のお仕事でも、「どうぞ僕をお楽しみください」という気持ちを大切にしています。テレビや雑誌のきらびやかな感じが好きなので、せっかく人様の前に出るなら、素敵なファッションやメイクにしたい。自分なりの〈美しさ〉を表現して、「僕を見て!」という「どやさ!」の精神でいきたいんです。
08/15 12:30
婦人公論.jp