初代中村萬壽、長男に時蔵の名を譲り、孫は梅枝を継いで一からスタート「歌舞伎役者として最初の転機は23歳のとき、松緑のおじさんとの出会いだった」

(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が聞く。第30回は歌舞伎役者の中村萬壽さん。五代目中村時蔵として歩んだ43年を振り返るとともに、三代襲名への思いを伺った。。

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【写真】萬壽さん7歳、父と奈良ドリームランドにて(1962年11月)

6歳で父と死別して

当たり役は数多く挙げられるが、『鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の品良く、寂しげで、凜とした中老尾上。また、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の、叶わぬ恋に身を焦がす町娘のお三輪もいい。でも『義経千本桜』「鮓屋」の弥助実ハ平維盛も雅びやかでいいな。

この当代切っての立女形(たておやま)、五代目時蔵さんがその名を長男の梅枝(ばいし)さんに譲り、自身は初代萬壽を名乗った。そして梅枝さんは名前を長男大晴(ひろはる)君に継がせ、晴れの初舞台を踏ませた。

彼の三代襲名披露興行が6月現在、歌舞伎座で華やかに繰り広げられている。こういう慶事に立ち会うことこそ、歌舞伎を観る醍醐味だ。

――倅の梅枝もだいぶ育ってきたので、これから若い役は回してやりたいな、とも思うし、また祖父(三代目時蔵)の代から時蔵の家は立役も多くやってますんで、それこそ「鮓屋」の維盛とか『妹背山』の久我之助とか、今年の1月には『芦屋道満大内鏡(あしやどうまんおおうちかがみ)』の狐葛の葉を倅がつとめて、私はその夫役の保名に回りました。

葛の葉が4枚の障子に別れの歌を筆で書きますよね。「恋しくばたずね来てみよ……」という。

倅は子供のころ、お習字が好きじゃなかったんで、私が教えました。家の壁にビニールシートを貼って……墨が垂れてもいいようにね。そこに畳1枚分くらいの半紙を貼りつけて、さあ、やってごらん、と。

それをしながら、ああ、うちに父親がいるってことは、こんなにも便利なことなんだな(笑)、と思いました。私が父親(四代目時蔵)と死別して後ろ盾を失ったのは、6歳の時でしたからね。

34歳で早逝した四代目時蔵は「超」のつく美貌の女方で、晩年にはよく十七代目勘三郎の相手役をつとめた。最後の舞台は『め組の喧嘩』の辰五郎女房お仲で、千秋楽1日前の晩、睡眠薬事故により、亡くなったとか。

十七代目が辰五郎の扮装で幕外に出て、「時蔵が、死にました……」と、悲痛な面持ちで客席に報告した、と聞いている。

――十七代目のおじは、祖父の弟ですから大叔父に当たります。父の死後は本当に親代わりのようになって面倒をみてくれました。

父は亡くなる1年半ほど前に四代目時蔵を襲名しましたけど、その披露狂言の『妹背山』「御殿」で、父がお三輪、私は梅枝として初舞台。十七代目のおじは豆腐買おむらで、私の手を引いて出てご披露してくださいました。

私が父と同じお三輪の役で五代目を継いだのは26歳の時ですが、この時も中村屋のおじさんは豆腐買で出てくれて、初舞台の獅童君の手を引いていました。

今回の倅の襲名狂言がやはり同じお三輪で、孫の梅枝の手を引いて出てくれるおむらの役は(片岡)仁左衛門のお兄さんです。「親戚なんだから出るよ」と言ってくださってね。

私が父を亡くしてから、十七代目のおじが『鏡獅子』を踊る時は、亡くなった哲明(のりあき)勘三郎(十八代目)と私は同い年ですから2人で胡蝶に出たり、また、子役に必要なお囃子やお三味線の稽古も中村屋のおじさんの家で一緒にやらせてもらったり、夏の若手勉強会「杉の子会」で大きな役をおじさんから習ったり……。

夏の間は箱根の仙石原に行ってらっしゃって、そこに私たちも何日間も泊まってお稽古していただいたりと、それはもう楽しかったですよ。

最初の年は『対面』(『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』)で、私は十郎、哲明勘三郎が五郎、今の(中村)又五郎が工藤(祐経)でした。

2回目からは成駒屋(六代目歌右衛門)のおじにも『本朝廿四孝』「十種香(じしゅこう)」の八重垣姫とか『鎌倉三代記』の時姫、『関の扉(と)』(『積恋雪関戸(つもるこいゆきせきのと)』)の墨染と小町とか、いろいろ教えていただきました。

「坊やちょっとこっちおいで」と……

歌舞伎の世界は一つの大きな家族のようで、だから若手は先輩を「おじさん」「お兄さん」と呼ぶことができる。(血縁のないお弟子たちは、「旦那」「若旦那」だが)

それで萬壽さんの第1の転機となるのは?

――転機って、その時はわからないものですよね。あとになって、あぁ、あの時のことが次へと大きく繋がったんだ、とわかったりする。

私の場合、23歳の時に池袋のサンシャイン劇場に出たことだと思います。

新劇場で始まった第1回の歌舞伎公演は(坂東)玉三郎・(尾上)菊五郎のお兄さんたちで、第2回が(市川)海老蔵時代の先代團十郎のお兄さん。

出し物は成田屋のお兄さんが「白浪五人男」の弁天(小僧)をなさって、去年亡くなった(市川)左團次さんが南郷(力丸)。私は赤星(十三郎)でした。

もう一つが所作ごとの『義経千本桜』「吉野山」で、海老蔵のお兄さんが狐忠信、私が静(御前)でした。その時の振り(振付)が紀尾井町の藤間家元でしたので、その二代目(尾上)松緑のおじさんが舞台稽古を見に来られて。

お洋服のまま舞台に上がって主に海老蔵のお兄さんにあれこれ注意なさるんですが、そのうち「坊やちょっとこっちおいで」って、女雛男雛の顔を見合わせるきっかけを教えてくださった。

当時は菊五郎劇団と吉右衛門劇団とが今より明確に分かれてまして、多分この時、初めておじさんにお会いしたんだと思います。

それで、なぜかその時の私の芸を気に入ってくださって、「松緑さんが梅枝を使いたいとおっしゃるんですが、いかがでしょう」と、松竹の重役から祖母に連絡があった。

うちの祖母(三代目時蔵夫人=小川ひなさん)は歌舞伎界のゴッドマザーと言われた、芸のよくわかる人で、それまでちょっと紀尾井町のおじさんとはわだかまりがあったんですが、「それじゃあよろしく」となり、それから道が開けた気がします。

松緑のおじさんの秋の明治座公演に呼ばれ、初代辰之助(三代目松緑)のお兄さんの『赤西蠣太(あかにしかきた)』の相手役小江(ささえ)の役に抜擢されました。それがご縁で菊五郎のお兄さんとも、今もずっと相手役をつとめさせていただいてます。

二代目松緑のおじさんは人を集めて振る舞うのがお好きだったんで、初日と楽の晩は紀尾井町のおうちに集まって、それがとても楽しかったし、また大いに芸の勉強にもなりましたから、これは第1の転機ですね。

後編につづく

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