会社立ち上げ→不動産事業に失敗して倒産→借金10億円超を背負うことに…“最後の銀幕スター”小林旭が直面した“厳しすぎる現実”
〈「大胆な衣装を無理やり引きはがそうとした」小林旭と女優・浅丘ルリ子が男女の関係に…“最後の銀幕スター”が語った恋愛事情〉から続く
1956年にデビューを果たし、2026年でデビュー70周年を迎える小林旭。86歳になっても、「歌う大スター」として輝きを放ち続けている。
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そんな小林旭が自身の華麗なる俳優人生を明かした自伝『小林旭回顧録 マイトガイは死なず』(文藝春秋)を上梓。ここでは同書より一部を抜粋し、小林が抱えていた借金について紹介する。(全6回の5回目/1回目から続く)
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膨れ上がった借金
映画会社のスターシステムが崩壊する中で各社のスターが独立し、裕次郎は1963年に石原プロモーションを設立した。小林も66年に製作プロダクション「アロー・エンタープライズ」を立ち上げている。
自主製作で『地球40度線 赤道を駈ける男』(斎藤武市監督)のロケをブラジルで敢行したが、動員は伸び悩み、当時の金で3000万円もの莫大な赤字を負った。
空前の渡り鳥ブームは終わりを告げ、小林をもてはやしていた周囲の人たちも次々に彼のもとを去った。芸能界以外の仕事に活路を見出そうとした小林が手を出したのがゴルフ場開発である。
1967年、小林は女優の青山京子と結婚した年に「旭日総業」を立ち上げ、本格的な事業に乗り出した。
「一時はプロを目指すほどゴルフに熱中して、諦めた後も依然として固執する部分が残っていた。世間でゴルフ熱が高まっていた時代背景にも背中を押されたんだろうね。仲間からも『商売するなら、ゴルフ場を造っちゃえよ』と言われて、ついその気になっちゃったんだな。あの頃は、ある種の熱病に浮かされていたというか……。
深く考えてもしょうがねえ、ええい、やっちゃえ! という感じでね。5、6年は一生懸命やったんだけど、いかに強運で鳴る俺も、あの時ばかりはツイてなかった」
突然、ゴルフ場の建設中止を余儀なくされた
小林が生まれ育った世田谷の地元にはかつて総面積2万5000坪のゴルフコースがあった。当時の鳩山一郎文部大臣が立案し、建設に動いたのは東急の五島慶太だったという。
「周囲の渓谷を整地して、満州事変が勃発する直前に完成したそうだ。そのとき架けられたゴルフ橋は、宮大工だった俺の祖父ちゃんが作ったんだ。開戦でゴルフ場は閉鎖されてしまったが、橋は戦後に架け替えられて残された。地元じゃちょっとした有名な橋だけど、やっぱり俺は不思議とゴルフと縁があるみたいだね」
躓きの始まりは、小林が取得した群馬県のゴルフ場用地から遺跡が発掘されたことだった。工事中に突然、落盤した地中から横穴式住居が出土し、建設中止を余儀なくされたのだ。
借金ばかりが膨れ上がって…
「おかげで10万坪も買い足すハメになったよ。悪い時には悪いことが重なるもので、遺跡騒動で揉めてる最中に第1次、第2次とオイルショックの波をもろにかぶった。資材はどんどん値上がりしていくし、いくら金を注ぎ込んでも工事が一向に進まない。
その間に地上げの交渉だけでも済ませておこうとしたら、取引相手に足元を見られてね。公民館で公聴会を開いて値段の交渉をしてると、『小林さんよ、俺は昔からのあんたのファンなんだ』なんて言われるんだ。『天下の小林が、わずか50円負けろだのなんだのって似合わねえこと言うなよ』と。そんなことを言われたら二の句も継げない。1坪50円違ったら、相当の差が出てくるんだけど『スターが細かいこと言いなさんな』と言われたら、俺は黙るしかなかった。
事業に徹して『冗談じゃねえ』って言い返せれば、状況はもう少し変わっていたかもしれないが、所詮は素人経営。俺はビジネスに徹することができなかった。そんな甘い考えでうまく行くはずもなく、けっきょく借金ばかりが膨れ上がっていったよ」
資金繰りのために小林は日本中を走り回り、スターのプライドをかなぐり捨てて金主に頭を下げた。ところが、1、2ヶ月で返すつもりで借りた数千万円の金が1日と持たずに露と消える。数億円を用立ててくれたスポンサーの金も焼け石に水でしかなかった。
最終的な損失額は200億円近くに上り、十数億円の借金が残った
「年の暮れに会社の机に札束の山をドーンと積むんだけど、支払いに回したり、社員に給料を渡したりしてるうちに、みるみる目減りしていくんだ。山がどんどん小さくなって、2、3000万あった金が最後には30万くらいしか残らなかった。それじゃ、自分の給料にもなりゃしないよ。
あるとき手形が銀行に持ち込まれたら倒産は免れないという事態になった。慌てた俺は藁にもすがる思いで債権者の家に駆けつけたが、あいにく家主は不在だった。冬空の下、薄い背広一枚でひと晩中震えながら帰りを待ったよ。ようやく会えた時、俺の靴は凍ったアスファルトにひっついてバリバリになっていた。何とか手形は割られずに済んだし、あの時、家にあげてもらってご馳走になった温かい紅茶の美味しさは一生忘れられないな」
膨らみに膨らんだ借金はもはやどうすることもできなかった。銀行の忠告もあり、小林の会社は1976年に不渡りを出して倒産する。最終的な損失額は200億円近くに上り、小林には十数億円の借金が残った。
「当時の報道では1億4000万円の負債と報じられたけれど、実際にはその10倍くらいあったんじゃないかな。1万円札が聖徳太子だった時代だから、いまとは比べものにならない途方もない額だよ」
〈「ヤクザが仕事現場にもついて来た」借金10億円超を背負い自己破産寸前…“最後の銀幕スター”小林旭が経験した“どん底生活”〉へ続く
(小林 旭/ノンフィクション出版)
11/14 11:10
文春オンライン