“最後の銀幕スター”小林旭が語る、石原裕次郎と過ごした“忘れられない一夜”「もう時効だから言ってしまうけど…」
〈撮影所に海パン、アロハシャツで現れ“別格”のオーラ…“最後の銀幕スター”小林旭が見た石原裕次郎の凄み「大したもんだって感心したよ」〉から続く
1956年にデビューを果たし、2026年でデビュー70周年を迎える小林旭。86歳になっても、「歌う大スター」として輝きを放ち続けている。
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そんな小林旭が自身の華麗なる俳優人生を明かした自伝『小林旭回顧録 マイトガイは死なず』(文藝春秋)を上梓。ここでは同書より一部を抜粋し、小林旭と石原裕次郎との交遊歴を紹介する。(全6回の2回目/1回目から続く)
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4大スターで飲んだ酒
ある日の夜中、銀座で石原裕次郎と2人で飲んでいた時のこと。互いに次の日が休みだと分かると、裕次郎が『いまから京都に行くか』と切り出した。それぞれ自分の車に乗って、東海道をダーッと走ったよ。もう時効だから言ってしまうけど、ボトルの2本や3本は空けた後だった。
一睡もしないで走り続けて、やっとのことで京都に着いたのが朝6時過ぎ。先斗町にある行きつけの店に行ったはいいが、玄関の柱に車をぶつけてしまった(笑)」
2人が泥のように眠っている間、女将が連絡した相手は、京都にいる萬屋錦之介と勝新太郎だった。
「当然、夜の何時頃にお茶屋の一力に集まろうとなるわけだ。こうなると一番年下の俺は『分かりました』と従うだけさ。
飯を食って飲み始めると、勝っつぁんが三味線を弾きはじめ、萬屋の謡が始まる。みんな芸達者だからすごいもんだよ。裕次郎は箸でリズムを取ってトントコトントコ太鼓のように叩いてたな。
そういう時に俺はしゃしゃり出るようなことはしない。次の店に行こうとなって、芸者さんたちを引き連れて花見小路を歩く時も、一歩下がって後ろから眺めていた。
周りもまさか裕次郎や勝っつぁんがいるとは思わないんだろう。すれ違いざまに、あっと気づいた時の目ん玉ひん剥いて驚く顔が面白くてね。すぐに人垣が出来ちゃうんだけど誰も気にしない。前を行く3人が『バカ野郎、この野郎』なんて言いながら、並んで歩くのを見るだけでも愉快だったな」
「夜は記者連中と芸者遊びをして…」小林旭が語った“古き良き時代”
いまなら通行人がこぞってスマホのカメラを向けそうな場面だが、当時は騒ぎになることもなかった。
「人が集まっても黙って見てるだけ。京都という土地柄もあるし、当時の市民感覚では芸能界は別世界だという意識もあったと思うよ。
何しろ、あの頃はマスコミだって一緒になって遊んでたからね。夜は記者連中と芸者遊びをして、あくる日に朝粥を食べながら報告会をやったこともある。新聞や雑誌ごとにそれぞれ当番記者がいて、背広のポケットに手を突っ込めば記事にはしないという合図だ。こっちは書いていいけど、こっちの話はゴミ箱行き。そんな秘密のやりとりがあった。いまでは考えられないかもしれないが、古き良き時代だったとしか言いようがないよ」
「あの時は揉めに揉めたね」52歳の若さで裕次郎が亡くなったときの状況
裕次郎が肝細胞癌で亡くなったのは1987年7月。52歳の若さだった。
「倒れたと聞いて病院に行った時は、石原プロの連中がガードして会わせてくれなかったんだ。自宅でひっくり返った時も俺と長門、錠さんと二谷で駆けつけたけど、なぜか二谷しか入れてもらえなかった。あの時は長門が怒って、揉めに揉めたね。亡くなった時も同じ。病院の待合室でじっと座っていると慎太郎さんが来て、俺を見ながら『ああ……』と言って病室に入って行った。
あの頃、活躍した人たちはほとんどいなくなってしまった。昭和は慎太郎さんが『太陽の季節』や『狂った果実』を書き、三島由紀夫も負けずに書いた。小学校しか出ていない田中角栄が国民のために政治をし、誰もが生き生きとして何事にも一生懸命だった時代だ。
芸能界にしても、俳優やスタッフが仕事に闘志を燃やしていた。特に看板スターと呼ばれるような人たちには所帯を背負っているという使命感があった。いまでは作る側にそんな情熱はないよね。フィルムの向こう側の世界にロマンを感じることも無くなってしまった」
(小林 旭/ノンフィクション出版)
11/12 11:10
文春オンライン