撮影所に海パン、アロハシャツで現れ“別格”のオーラ…“最後の銀幕スター”小林旭が見た石原裕次郎の凄み「大したもんだって感心したよ」

 1956年にデビューを果たし、2026年でデビュー70周年を迎える小林旭。86歳になっても、「歌う大スター」として輝きを放ち続けている。

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 そんな小林旭が自身の華麗なる俳優人生を明かした自伝『小林旭回顧録 マイトガイは死なず』(文藝春秋)を上梓。ここでは同書より一部を抜粋し、小林旭と石原裕次郎との“出会いの秘話”を紹介する。(全6回の1回目/2回目に続く

小林旭さん ©文藝春秋

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石原裕次郎との出会い

 小林が第3期日活ニューフェイスオーディションに合格した同じ年、映画『太陽の季節』(1956年、古川卓己監督)で鮮烈なデビューを飾ったのが、4歳上の石原裕次郎だった。

 裕次郎は慶應大学在学中に俳優を目指し、東宝と大映のオーディションを受けるも不合格。兄で作家の石原慎太郎と日活のプロデューサー・水の江滝子の推薦を受けて、大学を中退して日活に入社した。

 小林は裕次郎を初めて見た日の光景を、コマ送りの映像のように記憶している。

「その日は日活の撮影所にいて、ちょうどスタジオに向かおうとしていたところだった。俳優部の部員さんに『石原裕次郎さんの車が着きました』と耳打ちされて、世紀の二枚目と言われる男がどんなものか見てやろうと思って離れたところから眺めていたんだ。

 車のドアが開いて、まず出てきたのは脚だ。ゴム草履を履いた素足がスッと伸びて、たしか海水パンツを穿いていた。髪は坊ちゃん刈りでアロハシャツの裾を前で結んでたね。当時は『湘南の貴公子』なんて呼ばれていたらしいけど、のちの太陽族そのままのスタイルだよ。撮影所の所長やみんなに『いらっしゃいませ』と出迎えられるのを見て、これが噂の裕次郎か、大したもんだって感心したよ」

「顔を突き合わせれば楽しく飲んだ」

 当時の小林は駆け出しの大部屋俳優。デビュー前からスターの座を約束されていた裕次郎とは雲泥の差があった。

「俺と違って入社試験は受けていないし、大部屋の下積みも経験していない。ライバルのように比較されることもあったけど、俺の意識ではそうじゃない。旭と裕次郎ではなく、どこまで行っても裕次郎と旭だ。

 同期の二谷もバイリンガルで、入社後すぐにスター扱いされた側だったけど、俺より10歳近く年上だからね。『浮草の宿』(1957年、鈴木清太郎監督、のちの清順)の主演に二谷が抜擢されたときは、あいつができるなら俺にできないわけがないと思ったよ。

 その点、裕次郎は別格だった。役者にランク付けがあるとしたら彼はAクラス。東映の中村錦之助(後の萬屋錦之介)や東宝の三船敏郎、鶴田浩二と同列で、俺はいいとこAダッシュさ。

 それでも、顔を突き合わせれば楽しく飲んだし、間近で様々なことを学ばせてもらった。いい意味で刺激を受けたし、若い頃は俺も早くああいう人気者になりたいと思ったもんだよ」

スターを売り出すという発想がなかった昭和20年代

 昭和20年代、小林や裕次郎が登場する前の日本の映画会社にはスターを売り出すという発想がなく、日活は文芸路線を売りにしていた。

「『信用ある日活映画』なんて言ってたくらいだからね。その前の時代は活動写真が主流で、長谷川一夫先生や大河内傳次郎さんたちが活躍していた。俺も子供の頃に祭りの季節かなんかになると、四角い箱を載っけたリヤカーの見世物や、掛け小屋の芝居を見に行ったもんだよ。

 映像に音がつくようになって映画館が増えると、そういう文化は衰退してしまった。日活の前身も日本活動写真株式會社といって、終戦直後に社名が変わったんだ」

東洋一の撮影所

 1912年、大正元年に既存の映画4社が合併して創立された日活は、日本でもっとも古い映画会社である。

 創立記念第1回作品は、日本初の映画スターと呼ばれた尾上松之助主演の『忠臣蔵』(1912年、牧野省三監督)。その後も、初のトーキー映画『ふるさと』(1930年、溝口健二監督)や、大河内傳次郎の人気を不動にした『丹下左膳』シリーズ(伊藤大輔監督)などを送り出し、東京の向島、多摩川や京都の大将軍、太秦に大規模な撮影所を建てた。

 戦時企業統合により一時は映画製作を中断したが、終戦後に再開し、1954年に東京・調布市の多摩川べりに東洋一と謳われた日活撮影所を建設した。

 当時、松竹では三部作の『君の名は』(1953年、大庭秀雄監督)が大ヒットを記録し、ヒロインの岸惠子がショールを頭からかぶる“真知子巻き”が流行していた。東宝では『七人の侍』(1954年、黒澤明監督)が革新的な時代劇として高い評価を得て、ヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞を受賞。映画が“娯楽の王様”と呼ばれる黄金時代が幕を開けようとしていた。

裕次郎が現れて日活の空気が一変

「日活の空気が一変したのは昭和30年代。裕次郎という近代的な二枚目が現れてから、会社の意識も世間の見方も大きく変わった。

 彼が来てから、撮影所ではどっちを向いても裕様、裕次郎様だ。今ではもう見なくなったけど、昔の映画館には次に公開する作品の予告として、10メートルからの大きな看板が掲げられていたんだ。ポーズを決めて看板に収まる裕次郎見たさに、映画館に大勢のファンが集まったもんだよ。

 俺もいつかそういう看板を出してもらえるようになったらいいだろうなと思った。やっぱりすげえな、スターはいいなあって素直に憧れていたんだ」

戦後最大のスターと呼ばれた裕次郎の人気は凄まじかった

 戦時中、年間30本近くまで減少していた映画は、1950年代後半から60年前後には500本以上製作された年もあり、日本はアメリカに次ぐ第二の映画大国と呼ばれた。特に戦後最大のスターと呼ばれた裕次郎の人気は凄まじく、一時期、傾きかけていた日活の経営は右肩上がりに回復し、各社で“第二の裕次郎”の発掘が始まった。看板スターの扱いが日本映画の構造そのものを変えていった。

「撮影所の連中も、裕次郎が来てから給料の遅配が無くなったと喜んでたよ。

 日活はそれまでの映画とは違う現代劇の撮り方を打ち出して時代の最先端を行ったんだ。その過渡期に日活に入ることができた俺は、ある意味では運が良かったのかもしれない。裕次郎のおかげでうまいこと波に乗ることができたようなものさ」

 他社から俳優や監督を引き抜こうとした日活に対抗して、松竹、東映、大映、東宝、新東宝が手を組んだのが有名な5社協定である。業界全体でスターの引き抜きや貸し出しが御法度とされたが、裕次郎の登場で他社からスカウトする必要がなくなった日活も、1958年に5社協定に参加した。

“最後の銀幕スター”小林旭が語る、石原裕次郎と過ごした“忘れられない一夜”「もう時効だから言ってしまうけど…」〉へ続く

(小林 旭/ノンフィクション出版)

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