【逆説の日本史】「シベリア出兵」が多くの日本人にとって「影が薄い」のはなぜか?

作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その11」をお届けする(第1434回)。

【地図】ロシア革命(1917年)当時のロシア、日本、中国

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 一般にシベリア出兵と言うと、満洲事変やノモンハン事件のように大日本帝国が起こした軍事行動、いや実質的な戦争にくらべて「影が薄い」という印象を多くの日本人は抱いているのではないか。試みに辞書でシベリア出兵を引いてみると、

〈1918年ロシア革命に干渉するため、日・米両国を中心に英国・フランスの各国がチェコスロバキア軍捕虜救援の名目でシベリアに軍隊を送った事件。米・英・仏が撤兵したのちも日本は駐留を続けたが、国内外の非難により1922年に撤兵。〉
(『デジタル大辞泉』小学館)

 とあり、なるほどこれなら「出兵」程度の事件だなと、誰でも思うのではないか。だが、よくよく調べてみると、それはとんでもない過小評価である。ある百科事典の項目では、このシベリア出兵を次のように総括している。

〈足掛け8年、日本は戦費約10億円を費やし、死者は3000人を超えるという犠牲を払いながら、なんら得るところがなかったばかりか、ソビエト人民の敵意と列国の不信を買った日本帝国主義の完全な敗北であった。〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者由井正臣)

 なぜ「足掛け8年」になるのかと言えば、日本軍はこの過程でボリシェビキによるニコラエフスク(尼港)の日本人居留民虐殺事件(尼港事件)が解決するまで北樺太を保障占領したからで、最終的に日本軍がソビエト領内から完全撤兵したのが一九二五年だったからである。尼港事件についてはいずれ詳しく述べるが、一九二〇年に樺太(現サハリン)の対岸のロシア本土にある港町ニコラエフスクで、赤軍パルチザンによって白系ロシア人および在留日本人が合計数千名(日本人犠牲者は確認できただけで731人)大量虐殺された事件である。

 それにしても、日露戦争のころとは貨幣価値が違うとは言え、日露で費やされた「二十億の国帑」の半分の「十億」が「シベリア出兵」につぎ込まれたのだ。死者(戦死者+民間の犠牲者)も三千人と言えば、決して少ない数では無い。おわかりだろう、これは単なる「出兵」というよりは完全な戦争で「シベリア事変」と呼ぶべきだという向きもあるが、私は「第二次日露戦争」と呼んでもいいとすら思っている。

 では、なぜ日本はそこまで入れ込んだのかと言えば、そのきっかけはやはり先に述べた「バイカル博士の夢物語」だろう。じつは、その「見果てぬ夢 impossible dream」が叶うかもしれないと思ったからこそ、日本人は狂喜乱舞したのである。しかし、「狂喜乱舞したと言うが、そんな『痕跡』は無い」という反論が返ってくるかもしれない。たしかに「痕跡」は残されていないのだが、それにはちゃんとした理由がある。

 ここは歴史を理解するための重要な急所なので、詳しく解説したいと思うが、まずは大前提として、この「夢物語の実現」が当時の日本人にとっていかに魅力的だったか、まさに「当時の人々の気持ち」になってもらうために地図を作成したので、ご覧いただきたい(「ロシア革命〈1917年〉当時のロシア、日本、中国」参照)。

 第一印象はどうだろう? ロシアがいかに広大な国であるか、だろう。現在でも中国よりもはるかに大きい(カナダ、アメリカ合衆国に次いで領土面積第4位)世界一広大な国である。『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』で詳しく述べたところだが、この広大な国家も二十世紀初頭まではバイカル湖近くにあるウラル山脈によって東西に分断され、国力をじゅうぶんに発揮できなかった。それを解消するために着手されたのが、シベリア鉄道の建設である。

 一八九一年(明治24)のシベリア鉄道起工式には、当時皇太子だったニコライ2世が参列している。ちなみに、参列に向かう途中で日本に立ち寄った際に日本人巡査に斬りつけられた(大津事件)わけだが、日本人のロシアへの恐怖がそうせしめたといっても過言では無いだろう。後にロシアは、シベリア鉄道全線開通前に清国を脅して領土内に支線として東清鉄道も建設した。

 これで本線まで完成すれば、ヨーロッパ側にあるモスクワやペトログラードなどの大都市から豊富な物資と兵員を東アジア側に送り込むことができる。そうすれば、ロシアは東アジアを完全に征服するかもしれない。そもそもシベリア鉄道の終点ウラジオストクとは、ロシア語で「東方を征服せよ」という意味である。まさに東アジアへの領土的野心をむき出しにした大帝国とどのように折り合いをつけるか。

 これもすでに述べたように、戦争という最後の手段には慎重だった伊藤博文は、満韓交換論を持ち出して満洲はロシアの「縄張り」と認めるから代わりに朝鮮半島は日本の「縄張り」と認めてくれ、と申し入れた。しかし日本のことなど歯牙にもかけていなかったロシアは、これを拒否した。ロシア側から見れば、シベリア鉄道さえ完成すれば小国日本がなにを言っても圧倒できる。妥協する必要は無い、と考えたのだろう。

 そこで山県有朋を中心とした強硬派の意見がとおり、日本は文字どおり「清水の舞台を飛び降りる」ようなつもりで日露戦争に踏み切った。唯一のアドバンテージは、日英同盟が結ばれていたのでイギリスの援助が期待できることだった。もっともそれはあくまで軍事以外の応援にとどまるものであって、イギリスは日本のためにロシアと直接戦うつもりは毛頭無かったし、その余力も無かった。

 そして、誰もが日本の負けを予想したこの戦いに、日本は見事に勝った。それがいかに巧妙に計算された勝利であったかは前出の第二十六巻に詳述したところだが、その結果日本は樺太の南半分と東清鉄道の一部の租借権を得ることができた。これを日本は南満洲鉄道(略称「満鉄」)と改称し、日韓併合によって朝鮮半島も日本の領土として、なんとかロシアに対抗していこうとした。

 しかし、それでもあらためて地図をご覧いただきたい。大日本帝国のいかに「ひ弱」なことか。ロシアはあまりにも巨大である。それに「帝国主義の先輩」である欧米列強は、たとえばイギリスが香港を、ドイツが膠州湾を九十九年という長期にわたって「租借」していたが、これに対して日本が確立した利権の中国への返還期限はあまりにも短い。満鉄にしても、期限が来たら中国に返還せねばならないのだ。

 そのときが来たらロシアは再び中国に迫って満鉄を「手に入れる」かもしれない。そうなれば、日本は再びロシアと対峙しなければならない。つまり、当時の日本人は軍部だけで無く民間人に至るまで、「なんとかしなければ」と考えていたのだ。あの、強引で性急で結果的に中国人の深い恨みを買ってしまった対華二十一箇条の要求がなされたのも、背景にはこれがある。なんとかせねば「十万の英霊」の死を無駄にしてしまうという「あせり」が、租借期限延長を中国に強要する形になった。しかし、ロシアの脅威は依然として残った。

ロシア内乱は「天佑」

 さて、そうした前提で考えていただきたい。その強大な敵ロシアで内乱が起こったのだ。革命と言っても、最初は必ず内乱の形を取る。反対派を壊滅させるまでは、革命成功とは言えない。しかしロシアはフランスと違って古い形の帝国だったし、皇帝制を支持し共産主義思想を認めない保守派が少なからずいる。しかも、革命はバイカル湖以西のヨーロッパ側で起こった。

 つまり、保守派(白軍)は反対勢力を結集しやすいという強味があった。もともとウラル山脈によって東西分断されていた国家だから、西と東に分かれることはそれほど困難では無い。少なくとも、フランスやアメリカのような国土とは地勢的条件がまったく違う。

 アメリカでも南北戦争という内乱があったが、もし北部と南部の間にウラル山脈のような天然の障害があったら、話はかなり違っていただろう。戦争はもっと長引いたかもしれない。一方、この「ロシア内戦」は日本人にとってこんなに都合のいい話は無い。日本人は天皇家を戴く体制であり、イデオロギー的には白軍におおいに近い。しかも、幸いにして日本寄りのバイカル湖以東に主に展開するのは赤軍では無く、白軍である。ならば、白軍に軍事的に肩入れする形でロシア帝国の「再興」に協力すればいい。

 こうして恩を売っておいて、日本の盟友となった「新ロシア帝国」から、その代償として北樺太およびウラジオストクのある沿海州を獲得すればいい。そうすれば、日本の防衛は万全になる。おわかりだろう。当時の日本人の気持ちになって考えれば、あの元老井上馨が第一次世界大戦勃発のときに「天佑!」と叫んだように、ロシア革命いや内乱はまさに「天佑」だったのである。

 さすがにバイカル湖以東を日本がすべて領有することは不可能にしても、この形なら日本の西隣に盟友としての「新ロシア帝国」が誕生するわけだから、日本は二つの防壁(沿海州と新ロシア帝国)によって守られることになる。しかし、ここで読者は大きな疑問を抱くだろう。なぜ、現在の日本人はシベリア出兵に対する認識がこれほど薄いのかと。ここで冒頭述べたことを思い出していただきたい。

 私は、「『見果てぬ夢』が叶うかもしれないと思ったからこそ、日本人は狂喜乱舞したのである。しかし、『狂喜乱舞したと言うが、そんな「痕跡」は無い』という反論が返ってくるかもしれない。たしかに『痕跡』は残されていないのだが、それにはちゃんとした理由がある」と述べた。

 いまこそ、その理由を述べよう。このような見方を現代の歴史学者は否定する。その理由は、おわかりだろう。史料絶対主義である。たとえば、ロシア革命勃発のころに有力政治家が「天佑」などと叫んだ事実は無い(史料で裏付けられない歴史上の事実は無い)、という言い方である。こうした考え方がいかに幼稚で歴史の事実を追究するのに障害となる考え方であるか何度も指摘したが、その史料絶対主義の弊害が如実に表れているのが、この「シベリア出兵」なのである。

 まず、井上馨の「天佑」発言がなぜいまも伝えられているのか考えてみよう。それは結局、井上馨がそのことを妨害しなかったということなのである。つまり、なんらかの拍子で「天佑」とつぶやいてしまい、それを誰かに聞かれてマズかったという状況であったら、元老という大権力者である井上馨はその事実を抹殺しようとしたはずなのである。難しいことでは無い。このことは豊臣秀吉の「朝鮮出兵」のところでも指摘した。

 いまの歴史学者は、「朝鮮出兵には日本国中が反対した」などと言う。バカな話だ。いかにヒトラーのような絶対的独裁者でも、国民の大部分が反対する戦争を挙行するのは絶対に不可能だ。あたりまえの話だが、戦争は個人でやるものでは無い。豊臣秀吉のときも多くの国民が、少なくとも武士の大部分は戦争に賛成したのである。

 では、なぜ賛成したかと言えば、「朝鮮出兵」つまり中国侵略が成功すれば大名や武士たちはもっと所領が増えるからだ。つまり成功すると思ったから、初めはみな秀吉についていった。しかし、結果は大失敗に終わった。となると人間はどうするかと言えば、たとえば「この戦は必ず勝てるから北京で百万石もらうんだ」と日記に書いた大名がいたとしたら、彼はその日記を必ず抹殺するだろう。

 一万人に一人、いや百万人に一人ぐらいは子孫への教訓として残しておくという人間もいるかもしれないが、そんな殊勝な人間はきわめて少ない。誰だって子孫や後世の人間に「あの男はなんてバカだったんだ」と思われたくないから、証拠になる「史料」は廃棄してしまうのだ。

 同じことで、井上馨の発言が伝えられているのは、結果的に日本軍がドイツ軍に勝って膠州湾を占領することができたからである。もしこの試みが失敗に終わっていたら、それを可能にした第一次世界大戦勃発を「天佑」と評した井上馨はバカだったということになるから、彼は全力を挙げてその発言を記録から抹殺したはずである。つまり、史料には残らないということだ。

 冒頭に述べたように、「シベリア出兵」は惨めな失敗に終わった。となると、まさに現金なもので当初それを熱烈に支持していた人間も、まさに手のひら返しで「オレはもともと反対だった」などと言う。大ハシャギした人間であればあるほど、できるだけその事実を歴史から抹殺しようとする。つまり、具体的には証拠となる史料を消す。それが人間社会の常である。

 だから歴史の研究は史料絶対主義ではダメで、まず「当時の人々の気持ちになって考える」ことが一番重要なのである。

(第1435回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年11月8・15日号

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