二度にわたる日本軍の朝鮮出兵は“老害”豊臣秀吉による誇大妄想的な行動だったのか?

歴史上の人物への評価は、常に同じわけではない。例えば、三英傑と呼ばれる信長・秀吉・家康も、時代によって変わってきた。豊臣秀吉とイエズス会宣教師たちとの関係は、当初は良好だったが、1587年、秀吉自ら軍を率いて九州征伐へと向かった頃から変わったようだ。政治評論家の三浦小太郎氏によると、それは日本を守るための行動であったと言います。

※本記事は、三浦小太郎:著『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

伴天連追放令を出した秀吉の決断

豊臣秀吉が望んでいたのは、なによりもまず日本国内の「平和」だった。

▲豊臣秀吉(狩野光信:作 高台寺:蔵) 出典:Wikimedia Commons

秀吉の眼から見れば、宣教師たちがおこなっていた他宗派への排撃、キリシタン大名による上からの強制、ある種の宗教国家体制の構築は、平和への敵だったのである。

おそらく、秀吉はイエズス会との関係を断つべきか、貿易の利を守るために友好関係を維持するか悩んでいたと思われる。

そして、伊勢神宮からの要請、キリシタン大名領地から報告される寺社への攻撃の実情などが、秀吉のもとにはもたらされていたはずだ。

「国分」と「裁定」にあらがう島津家を征伐する九州遠征によって、秀吉はキリシタン大名の領地に実際に初めて足を踏み入れ、かつ、イエズス会が領有する長崎の港、そして日本人奴隷の実態などに触れただろう。

秀吉によって領土を守られるはずのキリシタン大名・大友家や大村家が、政治的にはイエズス会士たちの強い影響下にあることを秀吉は見抜いたはずだ。

そして、イエズス会士たちが、このキリシタン大名の領土を、ある種の「根拠地」として強い影響下にある領土のように振る舞っていたことも。

これらのさまざまな要素が絡み合い、ついにある感情の一線が切れてしまったこと、それがこの時期の秀吉の心理ではなかったかと私は考えている。

もちろん、これはあくまで推測に過ぎない。

より重要なのは、この九州征伐の時点での秀吉のキリシタン批判が、政治的な面においてはほぼ妥当なものであったこと、乱世を終わらせ平和を構築しようとする豊臣政権にとって、宣教師たちの日本の国法や伝統的宗教を布教のために踏みにじる行為をやめさせようとした姿勢は、一定の正統性を持っていることを理解することのほうが、秀吉の内面を探るよりもはるかに重要なことであろう。

たとえ、この時期に出されずとも、伴天連追放令は豊臣秀吉が「平和」を日本に構築するためには、いつかは必要なものだったのである。

▲秀吉のバテレン追放令 出典:Wikimedia Commons

秀吉はインド征服までを構想していた

そして、秀吉の伴天連追放令と同時に見ておかなければならないのは、朝鮮や琉球、そしてインドやフィリピンにまでわたる「アジア戦略」が同時に発動されていたことである。

従来、1592年から93年における文禄の役、1597年から1598年における慶長の役という二度にわたる日本軍の朝鮮出兵は、晩年の秀吉による誇大妄想的な行動だとみなされることが多かった。

一方、この出兵を評価する説もいくつかあり、当時のアジアを支配していた明国の冊封体制の打破、統一後の諸大名に対する秀吉政権の支配力強化、諸大名の戦意の海外への発揚、また、明との交易を真の目的とする説などがある。

そのうち、この出兵前後の秀吉の行動を分析し、それをスペイン・ポルトガルのアジアへの侵略に対抗する独自のアジア戦略であったことを論証したのが、『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』(経営科学出版により復刻)を、大東亜戦争中の昭和17年に著した奈良静馬と、さらに緻密な研究をおこない『戦国日本と大航海時代』(中公新書)で和辻次郎賞を受賞した平川新である。

まず、伴天連追放令前後の豊臣秀吉の行動を、平川の著書によって時系列に並べてみる。

1587年 秀吉九州平定、対馬の宗氏に朝鮮服属の交渉を命じる
     伴天連追放令伴天連追放令発布
1588年 島津氏を命じて琉球に入貢を命ずる
1591年 ポルトガル領インド副王への書簡作成
     マニラのフィリピン総督に服属要求書簡作成、発送
1592年 朝鮮出兵(文禄の役)
1593年 フィリピン総督に二度目の書簡送付
     台湾に入貢を求める書面

平川が着目したのは、豊臣秀吉は朝鮮出兵以前から、明国征服のみならず南蛮(東南アジア)や天竺(インド)征服を構想していたことだ。1585年の関白就任直後、秀吉は「日本国の事は申すに及ばず、唐国まで仰せ付けられ候心に候か」と語ったことが、家臣の書状に記されている。

また、1586年イエズス会のコエリョに大坂城で謁見した際も、「国内平定後は日本を弟の秀長に譲り、明国征服に乗り出すことを語った」とフロイスの記録にある。

ポルトガルと日本の軍事同盟が結ばれていたら?

じつは、秀吉はこのときにポルトガルと日本との軍事同盟まで持ち出し、コエリョはこれに賛同している。ここから読み取れるのは、伴天連禁止令を発する以前の秀吉の発想は明国征服までであり、そのためにポルトガルの軍事力も利用しようと考えていたのだ。

ポルトガルにも明国征服(および大陸全土へのキリスト教布教)の野望があり、この時点では双方が同盟を結ぶ可能性は十分あった。しかし、伴天連禁止令以後、その発想は放棄される。

それだけではなく、スペインの支配するフィリピン、ポルトガルの支配するインドが、秀吉にとっては征服の対象となる。これは海外征服の野望という以上に、スペインとポルトガルのアジア侵略への逆襲としての世界戦略であった。

▲アレッサンドロ・ヴァリニャーノ 出典:Wikimedia Commons

そのことはまず、1591年にヴァリニャーノがポルトガル領インド副王の親書を持参して謁見した際、秀吉側から渡された返事にも示されている。この内容はかなり激烈なもので、それをどうにか修正した形でヴァリニャーノたちは持ち帰らざるを得なかった。

この文書にはこうある。

「一度大明国を治せんと欲するの志あり。不日楼船を浮かべて中華に至らん事掌を返すが如し。其便路をもって其地に赴くべし。何ぞ遠近融を作さん乎」と明国征服が堂々と語られ、それによってインドとは近くなるのだから交流をしようと呼び掛けている。

同時に、日本は神国であり、仁の精神によって国を治めている。

しかるに「爾の国土のごときは教理をもって専門と号して、しかし仁義の路を知らず。此故に神仏を刑せず、君臣を隔てず、只邪法を囲て正法を破せんと欲する也」。

今後「邪法」を説く伴天連の布教は認めず、もし行えば「之を族滅すべし。臍を噛むことなかれ」。ただし、友好と貿易を求めるならば「商売の往還を許す」というものだった。
[『スペイン古文書を通じてみたる日本とフィリピン』を要約]

どう読んでもこれは友好関係を目指すものではなく、「神国日本」の優位性を明確にした挑戦状である。

だが、この表現が多少乱暴に見えたとしても、スペイン・ポルトガルが、インカ帝国やアジア・アフリカ各地でおこなってきた虐殺と収奪、そしてキリスト教が世界唯一の真理であり、他は「邪法」であるという価値観が、その侵略を正当化してきたこと、さらに日本における伴天連の寺社仏閣への破壊行為などを考慮すれば、この時点で秀吉が「神国」という理念でそれと対峙したことにも一理はあるというべきだろう。

この強硬な意思は、文禄の役における初期の戦勝後、さらに明確に表れる。1592年5月に朝鮮に上陸した日本軍は、6月には開城を征服し、秀吉がこの時期、関白秀次らに送った書簡には、今後の征服計画が次のように記されている。

(一) 大明国を支配し、秀次を「大唐関白」とする。
(二) 後陽成天皇を北京に移し、日本帝位は良仁親王か智仁親王のいずれかにする。日本関白は宇喜多秀家か羽柴秀康。
(三) 秀吉は寧波に居所を定める。
(四) 明の次は天竺(インド)征服を行う。

寧波とは中国・浙江省の港町である。

古くは遣唐使が送られていたことで知られており、室町時代初期には日明貿易の拠点であった。秀吉はここを抑えて東シナ海・南シナ海を制覇するための拠点にすることを考えていたと思われる。

そして、先の書簡に示されていたように、秀吉はスペインが支配していたフィリピンのみならず、ポルトガルの支配するインドをも射程圏内に置いていることを明確にしている。

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