朝鮮・中国・フィリピン・インド…秀吉のアジア戦略を昭和の文化人はどう評したのか?

三英傑と呼ばれる信長・秀吉・家康。2023年の大河ドラマ『どうする家康』や、映画『レジェンド&バタフライ』『首』など、現在でも人気が高い歴史上の人物だ。政治評論家の三浦小太郎氏が、現代のグローバリズムやナショナリズムを踏まえて、豊臣秀吉のアジア戦略について検証する。

※本記事は、三浦小太郎:著『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか 普及版 なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』(ハート出版:刊)より一部を抜粋編集したものです。

秀吉によるフィリピン総督への「降伏勧告」

豊臣秀吉は朝鮮出兵に先んじ、1591年11月の段階で、マニラのフィリピン総督に対し「降伏勧告」の書簡を送っている。

届いたのは翌年であるが、内容は次のようなものである。

なお、ここに記されている原田孫七郎は貿易商で、数回フィリピンにわたり、かの地は防衛が手薄であり出兵すべきことを、しばしば秀吉に説いていた。

我が国はここ百年以上、国内は様々な群雄が現れて戦乱が続いたが、この十年の間に自分がことごとく平定し統一した。これによって、朝鮮、琉球など諸国も我が国に帰服しており、これより、明国を征服する予定である。しかし、フィリピン総督はいまだに我が国に献上物も送る礼を尽くさない。「故に、まず軍卒をして其地を討たしめんと欲す」。

しかし、まず戦争の前に、原田孫七郎の貿易船によって余の意志を伝える。戦争になる前に、これ旗を倒して(降伏して)余に服従すべき時である。「来春、九州肥前に営すべし。時日を移さず、降幡を伏せてしかして来服すべし」。降伏しなければ、速やかに征伐を行うであろう。

[『スペイン古文書を通じてみたる日本とフィリピン』を要約]

まさに宣戦布告以上の降伏勧告文書である。

▲初代フィリピン総督ミゲル・ロペス・デ・レガスピ 出典:Celestí Sadurní i Deop / Wikimedia Commons

これに対し、フィリピン総督ダスマリナスは、戦争を覚悟してマニラに戒厳令を敷き、市民に許可なく財産や家族を市から移すことを禁じた(違反したものは処刑のうえ財産を没収、軍資金とする)。

さらに、マニラ付近の山間地帯に要塞を建設することを命ずるとともに、マニラ在住の日本人を武装解除して市外に隔離している。

また、スペイン国王にも特使を送り、援軍の派遣を求めるとともに、日本に対しては、原田孫七郎は商人であり、果たしてこの書簡が真に秀吉の正式な文書かどうかすぐには判断しかねる、しかし、日本との親交を我々は希望するという親書を送った。

秀吉は1592年8月と12月、2回にわたってフィリピン総督に書簡を送っている。

特に12月の書簡では「余が部下の将の多数はマニラに至り、その地を領すべき許可を与えられん」と、諸将もフィリピン出兵を望んでいることが告げられ「支那に渡りたる後はルソンは容易に我が到達し得る範囲内にあり」。

だが、余の願うのはあくまで親善関係である。スペイン国王に余の意志を伝えよ。「遠隔の地をもってカステイラ(スペイン)王をして、余が言を軽んじせしむることなかれ」と、フィリピン総督のみならずスペイン国王にも呼びかけ、親善を望むのならば地位ある要人を国王自ら日本に送るようにと書簡を結んでいる。

▲フェリペ2世の肖像 (ソフォニスバ・アングイッソラ) 出典:プラド美術館 / Wikimedia Commons

朝鮮出兵が終わらなければマニラは平和

フィリピンを支配していたスペイン人たちが恐れていたのは、日本軍の来襲と共に、植民地下のフィリピン人が蜂起することだった。

「フィリピンの原住民はスペイン人を憎んでいるから、日本人がスペインに行けば直ちに、原住民はスペイン人を日本人の手に引き渡すであろう」と、秀吉配下の武将が語っていたという噂が、当時のフィリピンでは流れている。

「太閤が死ねば2歳の息子しか相続人がおらず、分裂が起こり、マニラは危険から免れるであろう」と、総督の使者として1594年に来日するフランシスコ会士のジェロニモ・デ・ジェズスは語っていた。

またジェズスは、朝鮮での戦争が終わらないことを望む、そうであればマニラは平和なのだからとも語っている。いずれも、スペイン側の恐怖を表す言葉である。

奈良静馬の『スペイン古文書を通じて見たる日本とフィリピン』は、書物としては古文書を網羅して紹介しようとする意志が強すぎて、ややまとまりを欠いているが、そこには秀吉の堂々たる「神国理念」に基づいた外交文書を記録にとどめようという意思と、スペイン、そしてアメリカの植民地化に置かれたフィリピンの独立への共感がみなぎっている。

そこには歴史的共通性も根拠もあったのだ。

評論家・小林秀雄による「豊臣秀吉」論

さらに秀吉は1593年、台湾にも服属を求める書簡を送っている。

逆にフィリピンのスペイン高官のなかには、秀吉が朝鮮半島に力を奪われている今こそ、台湾を征服し防波堤とすべきだという説もおきていた。これもある意味、フィリピン以下、インドへの戦線を構築するために台湾が重要な拠点になるという、秀吉なりの戦略であったのかもしれない。

当時、近代的な意味での国家主権や国境概念は希薄な時代だった。現在の視点から見れば、豊臣秀吉の朝鮮出兵が過酷な苦しみを日本軍にも、また朝鮮民衆にも与えたし、結果として豊臣政権は疲弊、武将たちの団結も秀吉の死後には崩壊し、将来の豊臣家滅亡につながったことは否定できない。

しかし、朝鮮出兵と、その前後におこなわれた「アジア戦略外交」について、『戦国日本と大航海時代』(中公新書)で平川新は次のように評価している。

服属要求といい、征明の通告といい、これらの書簡はインド副王やフィリピン総督に対して、豊臣秀吉という人物、そして日本という国の強大さを誇示したものであった。(中略)

あえて明国征服を喝破していることからみれば、両国(スペイン、ポルトガル)が早くからねらっていた明国を、自分が先駆けて征服するぞ、と通告する意図までも感じ取ることができる。(中略)

こうした秀吉の言動は、ヨーロッパ最大の強大国に対する強烈な対抗心と自負心を示している。(中略)

秀吉がめざしたのは、世界最強国家スペインと対抗し、アジアを日本の版図に組み込んでいくことだった。言葉を換えれば、世界の植民地化をめざすスペインに対する東洋からの反抗と挑戦だともいえるだろう。

『戦国大名と大航海時代』より

そして、この秀吉の精神を、まるでその後の大東亜戦争の歴史を予言するかのように語っているのが、小林秀雄の昭和15(1940)年8月に行われた講演『事変の新しさ』である(『小林秀雄全作品13巻 歴史と文学』収録)。

この講演で、小林は「豊臣秀吉は気宇壮大ではあったが、決して空想家ではなかった。空想や誇大妄想にかられるような人間が天下をとれるわけがない。朝鮮出兵も明国征服も、秀吉のこれまでの豊富な知識と体験から導き出された戦略であった。しかし、結果は惨憺たる失敗であり、秀吉の誤算だったことは間違いない。だが、その誤算は、秀吉が耄碌(もうろく)したなどという『消極的な誤算』ではない」と断定する。

太閤は耄碌はしなかった。戦争の計画そのものが彼のあり余る精力を語っているわけです。彼が計算を誤ったのは、彼が取組んだ事態が、全く新しい事態だったからであります。この新しい事態に接しては、彼の豊富な知識は、何んの役にも立たなかった。

役に立たなかったばかりではない、事態を判断するのに大きな障碍(しょうがい)となった。つまり判断を誤らしたのは、彼の豊富な経験から割り出した正確な知識そのものだったと言えるのであります。これは一つのパラドックスであります。(中略)

太閤の知識はまだ足りなかった、もし太閤がもっと豊富な知識を持っていたら、彼は恐らく成功したであろう、という風に呑気な考え方をなさらぬ様に願いたい。そうではない。知識が深く広かったならば、それだけいよいよ深く広く誤ったでありましょう。(中略)

そういうパラドックスを孕らんでいるものこそ、まさに人間の歴史なのであります。これは悲劇です。太閤のような天才は自ら恃のむところも大きかった。したがって醸もされた悲劇も大きかった。これが悲劇の定法です。悲劇は足らない人、貧しい人には決して起りませぬ。

『事変の新しさ』より

豊臣秀吉に対する、また、歴史というものに対する最も深い、かつ逆説的な形でしか現れぬ真理がここにある。

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