英国はなぜ国家間のコロナワクチン争奪戦に勝利し、世界初の接種を実現できたのか
近年、新聞やニュースでも多く取り上げられるようになった「経済安全保障」。グローバル化する「経済」は、国家の安全保障という文脈にどのように関連するのだろうか。本連載では『経済安全保障とは何か』(国際文化会館地経学研究所編/東洋経済新報社)から、内容の一部を抜粋・再編集。米中・日米・日中関係をはじめ、デジタル・サイバー、エネルギー、健康・医療、生産・技術基盤の領域において、これからの日本はどのような国家戦略をとるべきなのか、各分野の第一人者が分析・提言する。
第6回は、経済安全保障の重点領域の一つである「医薬品」について考える。創薬産業において、欧米に対し劣勢を強いられる日本の現状や、VC(ベンチャーキャピタル)による成長投資の重要性を論じる。
<連載ラインアップ>
■第1回 日本が経済安全保障戦略で「黒字国」から「赤字国」に転落した3つの構造的理由
■第2回 経済社会秩序を守る「経済安全保障」政策の展開は、なぜ政府にとって困難を伴うのか?
■第3回 「中国は戦略的競争の相手国」米国が対中強硬路線を鮮明にした経済安全保障上の理由とは?
■第4回 コロナ禍やウクライナ侵攻で浮き彫りとなった、サイバー空間における経済安全保障の課題とは?
■第5回 国家安全保障の要と言えるエネルギー産業、日本の供給体制はなぜ脆弱なのか
■第6回 英国はなぜ国家間のコロナワクチン争奪戦に勝利し、世界初の接種を実現できたのか(本稿)
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医薬品開発ではスタートアップとVCが主役
いま技術開発の主流になっているオープンイノベーション、医薬品研究開発のエコシステムには、国境がない。新興技術の社会実装までは時間がかかる。スタートアップは失敗する確率が圧倒的に高い。
それでも医薬品開発では、アカデミア発の有望なシーズを基に次々とスタートアップが立ち上がり、それをVCが支え、有望なスタートアップは上場したり製薬企業に買収(M&A)されることで、新興技術が社会実装につながるエコシステムが確立している。アカデミアを含めライフサイエンスの最新研究動向を踏まえた技術の目利き、資金力、そして緻密な投資戦略がなければ、医薬品開発はもはや不可能になっている。
米欧日とも経済安全保障の重点領域として医薬品に注目するが、欧米に比して日本は劣勢である。医療用医薬品の世界売上トップ100品目のうち47を米国、44を欧州の品目が占め、日本はわずか19品目しかない(2021年)。
世界の医薬品売上高シェアでは大手製薬企業が64%を占めるが、医薬品創薬開発品目数シェアを見るとスタートアップが80%を占める。つまり世界的に創薬市場はスタートアップがリードしている。mRNAワクチンを開発したのがビオンテックとモデルナというスタートアップであったことは創薬市場のトレンドに沿ったものであった。
一般的に、新薬開発には治験を経て承認を得るまで10年以上の歳月がかかり、数百億から数千億円規模の研究開発費が必要になる。しかも、その成功確率は年々低下してきている。
1つの医薬品が承認されるまでに必要な候補数は20年前に約1.3万だったが、現在は約3万。つまり成功確率は3万分の1と極めて低い。創薬の成功はますます難しくなっており、コストは上がる一方である。投資を回収するためには最初から世界展開を視野に入れた創薬が不可欠になっている。
コロナ危機でも「日本発」として期待を集めながら実用化に至らなかった治療薬やワクチン、検査法の候補は多い。創薬ビジネスは開発期間が長く、開発資金が多額にもかかわらず、成功率が低く、薬事承認されないと売上がないなど、スタートアップの中でも事業化の難易度が高い。
臨床試験に進んでも、安全性を評価する第1相、少数の被験者を対象に有効性を評価する第2相の治験では、上市(販売)までの道のりがいまだ遠いにもかかわらず、50億〜100億円の資金が必要となる。しかし日本の創薬エコシステムではVCから数千万円から数億円規模の出資を得るのがやっとの状況である。
そもそも日本は医薬品分野に限らず、スタートアップとVCをめぐる状況で停滞を続けており、これが日本経済凋落の一因となっている。象徴的なのが平成元年(1989年)と令和元年(2019年)のグローバル時価総額トップ10社の顔触れである。
平成元年はNTT、日本興業銀行、住友銀行がベスト3で、10社中7社が日本企業だった。しかし令和元年になると日本企業はゼロ、GAFAMやアリババなど米中のテック系企業が10社中7社を占めた。このテック系7社はすべて起業家がスタートアップとして立ち上げ、成長過程でVCの投資を受けた企業である。
日本の経済安保をめぐる議論では、スタートアップの成長段階に応じた、VCの投資ステージの視点がしばしば欠落している。いわゆる基礎研究から事業化への「橋渡し」、あるいはワクチン戦略で「創薬ベンチャーへの長期的な育成・支援」や「戦略的資源配分」としか書かれていない、こうしたプロセスこそが重要なのである。
スタートアップは、アカデミアの基礎研究や事業アイデアをベースとして、起業家が創業したばかりのシードステージから始まる。次が製品やサービスを開発するアーリーステージとなる。
ここでは最初にVCが投資するシリーズA、組織や事業を立ち上げてゆくシリーズB、そして事業を盤石にするシリーズCと、資金調達を続けていく。シリーズが進むにしたがってVCの投資額も増えていく。
しかしここまでに99%以上のスタートアップは淘汰される。毎年、世界で3500万社が起業、そのうちシードステージで投資を受けられるのは7万社、さらにアーリーステージでVCから資金を受けられるものは1万社まで減ると言われている。
そして、シリーズD以降はレイトステージと呼ばれる。スタートアップは事業そのもので赤字が続くのが普通だが、レイトステージではエグジット(出口)の上場やM&Aを見込んで、黒字が出るビジネス体制を確立する必要がある。
こうした投資ステージの視点は、医薬品開発において、臨床試験の第1相、第2相、大規模治験となる第3相まで生き残り、薬事承認を経て上市されるまでのプロセスと重なる。
世界初のコロナワクチン接種を実現させた英国ワクチン・タスクフォース
コロナワクチンの実用化に向け、VCの視点を活かして成功したのが英国のワクチン・タスクフォース(VTF)であった。VTFを率いたのはバイオテクノロジー企業へのVC投資に長年、携わってきたケイト・ビンガムである。
2020年5月、VTFの議長に就任した彼女は、英国が米国、EU、そして日本と比べ人口が少なく、市場が小さいことに最初から気づいていた。つまり調達合戦になれば米国どころか日本にも競り負ける可能性があった。
そこで彼女はスピードこそが最重要(speed was of the essence)であり、英国をワクチン企業にとって「最高の顧客」にすることでしかワクチン争奪戦に勝てないと考えた。
彼女はバイオ系スタートアップへのVC投資や契約交渉、ワクチン生産、臨床試験の専門家や元外交官など、経験豊富なプロフェッショナルを集めてチームを立ち上げ、最初の6週間で調達戦略を策定した。
当時、世界中で開発されていた190以上のワクチン候補のデューデリジェンス(事業調査)を行い、7つのワクチン候補を選び出しポートフォリオを組んだ。成功確率は10~15%と見ていたため、mRNAやウイルスベクターなど異なる種類のワクチン候補を組み合わせたポートフォリオとした。
同時に、損失が出るのは覚悟の上で製薬企業にとって「最高の顧客」であるべく、製造施設整備のため前払いで資金を拠出した。
そして国営の国民保険サービス(NHS)とともに全国規模の臨床試験データベース「NHSワクチンレジストリ」を構築した。50万人以上が登録し、そのうち35%が60歳以上というNHSワクチンレジストリは、臨床試験を迅速に進める上で極めて有効に働いた。そしてワクチン候補が臨床試験を通過するたびに拠出額を積み上げていった。
結果的に、英国はファイザー/ビオンテックのmRNAワクチン購入契約を米国、EU、日本に先駆けて最初に締結し、2020年12月8日、世界でいち早くワクチン接種を開始した。しかもVTFが選定した7つのワクチン候補は、すべてが安全かつ有効なワクチンとして承認された。VCの投資手法を存分に活用したVTFは、ワクチン確保のベストプラクティスとなった。
医薬品生産で進む水平分業
晴れて医薬品の開発に成功し、上市にこぎ着けても、それで安泰なわけではない。新薬は特許期間が終了すると後発品に置き換わってしまう。研究開発の原資を確保できる期間は限られている。
半導体業界において水平分業が主流となり、TSMC(台湾積体電路製造)が受託製造で地殻変動を起こしたのと同様に、医薬品業界でもいまや水平分業が主流になりつつあり、受託開発・製造企業が急伸している。
CMO(Contract Manufacturing Organization:医薬品受託製造機関)やCDMO(Contract Development and Manufacturing Organization:医薬品受託開発製造機関)などと呼ばれる。
世界トップはスイスのロンザ、第2位は韓国のサムスンバイオロジクスで、両社で世界の医薬品受託製造能力の5割を占める。2021年5月、文在寅大統領とバイデン大統領の米韓首脳会談にあわせ、サムスンバイオは米モデルナと新型コロナ向けmRNAワクチンの受託製造契約を締結、サムスンバイオは10月に韓国でワクチンの出荷を開始した。
<連載ラインアップ>
■第1回 日本が経済安全保障戦略で「黒字国」から「赤字国」に転落した3つの構造的理由
■第2回 経済社会秩序を守る「経済安全保障」政策の展開は、なぜ政府にとって困難を伴うのか?
■第3回 「中国は戦略的競争の相手国」米国が対中強硬路線を鮮明にした経済安全保障上の理由とは?
■第4回 コロナ禍やウクライナ侵攻で浮き彫りとなった、サイバー空間における経済安全保障の課題とは?
■第5回 国家安全保障の要と言えるエネルギー産業、日本の供給体制はなぜ脆弱なのか
■第6回 英国はなぜ国家間のコロナワクチン争奪戦に勝利し、世界初の接種を実現できたのか(本稿)
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10/28 06:00
JBpress