「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?
「一番搾り」「淡麗」「氷結」など、今やキリンを代表する数々の商品を手がけ、「稀代なるヒットメーカー」と称されたマーケター・前田仁(ひとし)。ビール業界において、なぜ前田だけが次々とヒットを生み出すことができたのか。本連載では『キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯』(永井隆著/新潮文庫)から、内容の一部を抜粋・再編集。決して順風満帆とは言えなかった前田のキャリアを軸に、巨大飲料メーカー・キリンの歴史をひもといていく。
第5回は、ビール業界におけるキリンの首位陥落の引き金となった“黒歴史”、ラガーの「生ビール化」戦略から、1990年代当時のキリンが抱えていた企業体質の問題点について考察する。
<連載ラインアップ>
■第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは
■第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
■第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
■第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?
■第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?(本稿)
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?
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「生ビール」の正体
「日本で売られているビールには、大別して『生ビール』と、『熱処理ビール』の2種類があります。ただ、実はその差はほんのわずかです」
キリン技術部門の元幹部が、このように教えてくれた。
「『熱処理ビール』の『熱処理』とは、ルイ・パスツールが発明した低温殺菌法のことを指します。ビールやワイン、清酒といった醸造酒は、酵母や乳酸菌の働きによって作られています。ただ醸造酒の出荷前には60℃のお湯に30分ほど浸けて、酵母や乳酸菌を殺菌しているのです。そのほうがより長持ちするからです。
この熱処理の工程を工業的に確立したのは、アメリカのアンハイザー・ブッシュ社(現在はアンハイザー・ブッシュ・インベブ=ABインベブ)です。ベルトコンベアに乗せられた瓶ビールに、シャワーのように60℃のお湯をかける、箱型の装置(パストライザー)を発明したことで、アンハイザー・ブッシュ社は開拓時代の西部で大成功を収めました。
日本のビール会社も、アンハイザー・ブッシュ社と同じ装置を入れ、熱処理ビールを商品化しました。その代表例が、キリンラガーです。
ラガーは大ヒット。戦後の日本でビールといえばキリンラガーという時代が訪れました。そのキリンラガーの牙城を崩すために、ライバル社は一計を案じます。
熱処理の温度を下げるなど、殺菌強度を下げただけで、熱処理しているビールを『生ビール』と銘打って、あたかも熱処理していないかのごとく宣伝したのです。
『生ビール』を名乗っていても、最低限の熱処理はしています。どのビール会社でも、瓶ビールと缶ビールは、温瓶(缶)機というパストライザーと同じような装置を通しています。結露防止のため、40℃程度に温めてからラベルを貼(は)り、カートン詰めするからです。
そもそも海外では、生ビールと熱処理ビールの区別はありません。区別しているのは日本だけです。つまり『生ビール』は、マーケティングのために日本のビール会社が作った概念だということです。
キリンには、本来『熱処理ビール』のキリンラガーを、『生ビール』化して販売、失敗した歴史があります。ライバル社の戦略に乗せられた結果、対応を間違えてしまったのです。キリンにとっての『黒歴史』です」
ライバル社による「キリンは缶ビールと生ビールの比率が低い」という攻撃は、ボディーブローのように効いていった。
社内でも「生ビールを出さなければまずい」という雰囲気が醸成されていった。そこへ追い打ちをかけるように、アサヒは「生ビール売上№1」広告を95年に展開する。
キリンはこの広告に過剰反応してしまい、「ラガーの生ビール化」という、悪手を放ってしまう。
同質性の強い組織
本山からキリン社長を引き継いでいた真鍋圭作は、総会屋事件の処理のため身を挺(てい)して奮闘した佐藤安弘を、新しい社長に指名した。佐藤は96年3月、社長に就任する。
佐藤は主流の営業部門出身ではなく、経理や総務などスタッフ部門出身で、かつ子会社に長く在籍していた。その佐藤の社長就任は抜擢(ばってき)といってよかった。
医薬品など経営多角化を進める上で、佐藤が適任だったという事情もあるだろう。ただ、真鍋としては、「人気投票キャンペーン」を無視して暴走する営業部門を信用できなかったのかもしれない。
その上で、総会屋事件に真正面から立ち向かった佐藤の「胆力」を買ったのだろう。
佐藤は05年9月に、日本経済新聞の名物連載「私の履歴書」に寄稿している。
連載の23回目によれば、真鍋から次期社長を打診されたのは「1995年11月上旬」だったという。真鍋はトップ人事について当時キリン相談役の本山英世に相談していたようだ。
その佐藤は、「ラガー」の生ビール化について、02年4月に筆者が取材した際、次のように答えている。
「結果論ですが、最終的に踏み切らざるを得なかった。熱処理ビールのラガーを生にできないのは、キリンに技術力がないからだ、などとも言われたのです…」
キリンが戦略ミスを犯した「真因」は、社長人事より、もっと深い部分にあったのだろう。
キリンは戦後を代表する優良企業。そのため、新卒採用でも圧倒的に強い立場にあった。
長い間、キリンの新卒採用は出身大学で足切りをしていた。いわゆる「指定校制度」である。
佐藤がキリンに入社したのは58年。当時のキリンは、東大や京大など旧帝大卒、一橋大卒のほか、私立では早慶卒しか採用しなかったという。
この点について、佐藤は次のように語っていた。
「『指定校制度』により、多様な人材を確保する機会が制限されてしまいました。その結果、同質性の強い企業風土が生まれ、会社の活力が殺(そ)がれた点は否(いな)めません」
ちなみに佐藤自身は早大商学部卒。キリン初の私大出身社長だった。
「指定校制度」は、団塊世代入社の69年から73年に、他の国立大学や、関西学院や同志社、上智といった私立大学まで拡大される。さらに、バブル期から92年入社組までの大量採用の期間、キリンはあらゆる大学に門戸を開いた。その結果「指定校制度」は消滅する。
ただ、当時のキリンには、まだその変化が現れてはいなかった。
同質性の強い組織が、必ずしも「悪」ではない。同じカルチャーを共有する組織は、目標に向かって一致団結しやすいという利点もある。
はっきりとした目標があり、それに向けてキャッチアップしていく時代には、組織が一丸となって動くほうが有利だろう。
その一方、同質性の強い組織は、「異才」や「創造的な人材」を排除しがちで、環境の変化に対応するのが苦手だ。意見の対立や衝突を嫌い、反対意見を無視して、最初から結論ありきで物事を進めがちだからだ。
95年当時のキリンは、少なくとも部長以上の幹部はかなり同質性の強い組織だった。50歳以上の男性で、かつ一流大の出身者しかいなかったからだ。
日系メーカーの中では、かつての日産と並んで、高学歴者ばかりが出世する会社だったのである。しかもキリンは、「ラガー」による「シェア6割超」という成功体験を持っていた。
一定の成功を収めた人は、みずから変わることを嫌うものだ。
バブル崩壊直後の95年頃、「この不況は一過性で、いずれ回復する」という言説がまかり通っていた。当時はまだまだ、バブルという「成功体験」を忘れられない経済学者、知識人が多かったのである。
当時のキリン幹部が、「ラガーの売り上げはいずれ回復する」と考えたのも無理はなかった。刻一刻と変わる外部環境への対応ほど、彼らが苦手とするものはなかったからだった。
「ラガー」の生ビール化は、こうしたキリンの体質が生んだ、必然的な出来事だった。
この「苦い経験」に学んだのか、その後のキリンはダイバーシティ(多様性)志向を強めることになっていく。2024年4月現在では、短大卒の女性執行役員も誕生している。
<連載ラインアップ>
■第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは
■第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
■第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
■第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?
■第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?(本稿)
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?
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10/04 06:00
JBpress