窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?

写真:Japan Innovation Review編集部

「一番搾り」「淡麗」「氷結」など、今やキリンを代表する数々の商品を手がけ、「稀代なるヒットメーカー」と称されたマーケター・前田仁(ひとし)。ビール業界において、なぜ前田だけが次々とヒットを生み出すことができたのか。本連載では『キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯』(永井隆著/新潮文庫)から、内容の一部を抜粋・再編集。決して順風満帆とは言えなかった前田のキャリアを軸に、巨大飲料メーカー・キリンの歴史をひもといていく。

 第6回は、1990年代後半の「発泡酒」ブームの中でキリンが放ったスマッシュヒット商品「淡麗」の誕生を巡り、たった4カ月で新商品を開発した前田の活躍にフォーカスする。

<連載ラインアップ>
第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは
第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?
第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?(本稿)


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 ビールに使う麦芽は、もともと大麦を発芽させて乾燥し、根を切除したもの。そのため、粉砕した大麦を加えることで、麦芽由来の「うまみ」を補うことができる。

 ただ、大麦そのものは通常のビール造りでは使わない。そのため調達が難しく、値段も高かった。しかも、工場での取り扱いが難しいという問題もあった。

 それでも前田は、「淡麗」に大麦を使うことにした。

 国産のビール大麦を調達し、工場には大麦用の粉砕機を新たに導入する。それらのコストは当然、原価となって跳ね返ってくる。

 そのデメリットに目をつぶっても、発泡酒の「新しい価値」を作ろうとしていたのだ。

「大麦を使った淡麗は、本格感のある味になりました。それはつまり、従来の発泡酒とは違うカテゴリーを創出したということです」02年4月に筆者が取材した際、前田はこのように発言していた。

 ここに、前田のヒット商品に共通する「特徴」を見出(みいだ)すことができる。「一番搾り」の開発時、前田のチームは、次の「ロングセラーの5つの条件」を挙げていた。

①企業の思い入れ
②オリジナリティ
③本物感
④経済性(お得感)
⑤親しみやすさ

 この5条件のうち、特に③と④の要素を前田は大事にしていた。

 麦芽100%で、しかも専用のグリーンボトルを使った「ハートランド」(86年)、一番搾り麦汁だけで作る「一番搾り」(90年)、そして高コストな大麦を使った「淡麗」(98年)と、いずれも前田は「プレミアムな価値」を「スタンダードな価格」で提供することにこだわっている。

最多記録

 ただ、佐藤が宣言した期限は「98年早々」。

 普通、ビール会社の新商品開発は「どんなに急いでも1年はかかる」(キリンのマーケティング担当者)。いかに前田といえども、本当に間に合わせられるのか。

 周囲が危惧(きぐ)する中、「淡麗」の開発は圧倒的なスピードで進んでいく。

 前田は「淡麗」の広告に、アートディレクターは宮田識、パッケージデザインは佐藤昭夫と、「一番搾り」と同じスタッフを起用した。

「一番搾り」の広告代理店は電通だったが、「淡麗」では第一企画(現在のADKグループ)を使う。

 もともとキリンの商品開発部では「ラガー」や「一番搾り」と「発泡酒」が競合しないように腐心していた。

 一方、前田は「ビールが減っても、それ以上に淡麗が伸びればいい」という方針を打ち出し、「淡麗」が「ラガー」「一番搾り」と競合することをいとわなかった。

 それは、かつてのキリンでは考えられない「発想の転換」だった。この前田の判断を、「マーケットの創造的破壊に挑んだ」と評したマーケターもいたという。

 前田仁には勝算があった。

 景気が拡大していたアメリカにあっても、価格の安いエコノミー商品が販売量の6割を占めていた。ましてや、不況にあえぐ日本で、発泡酒が売れないはずがない。

 90年代も終わりを迎え、人々の意識やライフスタイルは大きく変化しつつあった。仕事が終わったあと、上司が部下を連れて縄暖簾(なわのれん)をくぐり、「とりあえずビール」で乾杯する光景もだんだん減っていった。

 そんな中、特に若い世代には、「お酒はプライベートで楽しむもの」という考え方が広がりつつあった。自腹で飲むなら、少しでも安いお酒のほうがありがたい。

 そうしたニーズに応える商品の大ヒットを、前田は確信していたのだろう。

 迎えた98年2月3日。

 この日開かれた「淡麗」の発表会の席上では、完成していた「淡麗」のサンプル品も配付された。

 アナウンスされた発売日は2月25日。ほかの開発チームが束になっても、まるで進まなかった発泡酒の新商品を、前田はたった4カ月で開発してみせたのである。

 しかも、子会社から本社に復帰して最初の仕事だった。普通では考えられないようなスピードである。

 なぜこんなことが可能だったのだろうか。

 その理由について、上野は次のように語る。

「前田さんが一人でやったからです。チームはありましたが、メンバーは前田さんの手足でしかなかった。淡麗の開発では、上司に確認をとる必要がありませんでした。前田さんは商品開発部の部長であり、一人のマーケターでもありました。だから、前田さんは、自分でプランを考え、自分で決裁することが可能だったのです。逆に、そうでもしなければ、たった4カ月で新商品を開発するのは不可能だったと思います」

 別のキリン元幹部は指摘する。

「マーケ部が発泡酒開発に苦戦していることを、前田さんは間違いなく知っていた。そこで、『自分ならこう作る』という考えを、前田さんはある程度もっていた、と思う。また、外部スタッフも、一番搾り開発時と同じ人たちを前田さんは起用した。彼らは7年半の間に大御所になっていたけど、前田さんの元に集まってくれたのも成功要因でした」

 猛スピードで商品化された「淡麗」だったが、決して「やっつけ仕事」ではなかった。いざ発売されるや、消費者から熱狂的な支持を受けたのである。

 当初の販売目標は、98年12月末までに1600万箱だったが、実際には目標をはるかに上回る3979万箱を売る。

 発泡酒の「淡麗」と単純比較はできないが、初年度の販売数としては、「スーパードライ」の1350万箱(87年)、「キリンドライ」の3964万箱(88年)、「一番搾り」の3562万箱(90年)を上回る、「最多記録」だった。

 発泡酒だけを見ても、サントリーの「スーパーホップス」を抜き、いきなりトップブランドに躍進した。

「淡麗」人気は発泡酒市場全体を牽引(けんいん)する。98年のビール・発泡酒市場に占める発泡酒の構成比は、97年の5.8%から跳ね上がり、13.5%と初めて1割を超えた。

 窮地のキリンにとって、「淡麗」のヒットはまさに「恵みの雨」となった。

 98年のキリンの出荷量は前年比0.5%増。微増だが、前年度を上回ったのは94年以来、実に4年ぶりのことだった。この年のビール・発泡酒市場におけるキリンのシェアも、40.3%と前年比で0.1ポイント回復する。

 しかしながら、98年のビールの出荷量は前年比17.2%減と、大きく下がってしまう。「淡麗」と「ラガー」などのビール商品が競合してしまったことがその理由だ。

 一方、発泡酒に未参入だったアサヒのシェアは前年より1.8ポイント増の34.2%。ただし、ビール単体のシェアは、キリン38.4%に対しアサヒは39.5%と、アサヒはついにシェア№1の座を奪ったのである。
 

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第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは
第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?
第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?
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