“聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは

写真:Japan Innovation Review編集部

「一番搾り」「淡麗」「氷結」など、今やキリンを代表する数々の商品を手がけ、「稀代なるヒットメーカー」と称されたマーケター・前田仁(ひとし)。ビール業界において、なぜ前田だけが次々とヒットを生み出すことができたのか。本連載では『キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯――』(永井隆著/新潮文庫)から、内容の一部を抜粋・再編集。決して順風満帆とは言えなかった前田のキャリアを軸に、巨大飲料メーカー・キリンの歴史をひもといていく。

 第1回は、キリンの強さの源泉「ラガー」の破壊を企てたビール商品「ハートランド」が誕生した経緯や、その背景にあった前田の狙いを探る。

<連載ラインアップ>
■第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは(本稿)
第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
■第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?(9月25日公開)
■第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?(10月2日公開)
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?(10月9日公開)

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ラベルのないビール

 いままさに、バブルの時代が幕を開けようとしていた1986年。その一風変わったビールは生まれた。ビールの名は「ハートランド」。目に鮮やかな緑色のボトルが印象的な、麦芽100%の瓶ビール(500㎖)だ。

 大きなスーパーなら、クラフトビールのコーナーに置かれているが、コンビニではあまり見かけない。どちらかといえばマイナーなビールだ。キリンビールの製品ということさえ、意外と知られていないようだ。

 そのボトルにはラベルがない。ガラスにエンボス(浮き彫り)が施されているだけ。「KIRIN(キリン)」のロゴすら入っていない。このボトルのデザインは、レイ吉村が手掛けたもの。ニューヨークの沖合に沈む沈没船から発見された、古い瓶の形をイメージしたという。エンボス部分に描かれた大樹のイラストは、画家ラジャー・ネルソンが描く、アメリカ・イリノイ州の穀倉地帯の風景がもとになっている。

「ハートランド」は、当時テレビ朝日系で放送されていた「愛川欽也の探検レストラン」という料理バラエティ番組向けに作られたビールだった。ちなみに、同番組のスポンサーはキリン1社だった。

 番組向けのビールではあったが、テレビ朝日の旧局舎内のレストラン「たべたか楼」で、実際に飲むことができた。「ハートランド」はその後、キリン直営店でも提供されることになる。

 その直営店こそ「ビアホール・ハートランド」である。86年10月に、現在六本木ヒルズがある、当時は「再開発予定地」だった場所にオープンしたお店だ。「ハートランド」はそもそも、この「ビアホール・ハートランド」のために開発されたビールだった。テレビ番組での使用はPRのための施策にほかならない。この「ビアホール・ハートランド」も、普通のビアホールではなかった。

 建物自体がかなり個性的だった。かつてニッカウヰスキーの原酒貯蔵庫跡で、通称「穴ぐら」と呼ばれた建物と、日本における弁護士の草分けである増島六一郎の元邸宅で、大正初期にドイツ人が設計した、蔦(つた)の絡(から)まる4階建ての洋館「つた館」からなっていた。

 86年8月から改装工事を始め、10月20日にバースタイルの「穴ぐら」がオープン。「つた館」を加えてフルオープンしたのは11月7日だった。客席数は「穴ぐら」が54席、「つた館」が142席、合計196席という大箱だった。

「ハートランド」の商品開発を仕切ったのは、当時キリンのマーケティング部に在籍していた前田仁だった。前田は「ビアホール・ハートランド」の初代店長も務めている。

 マーケティング部の前田が、なぜ直営店の店長を務めたのか。それは「ビアホール・ハートランド」の狙(ねら)いが、消費者のニーズを探ることにあったからだった。お店で得た知見をもとに、前田はその後、大ヒット商品を次々に開発、「マーケティングの天才」と呼ばれることになる。

「ラガー」という聖域

 当時のキリンは、ビール業界における「絶対的№1企業」だった。

 72年から、「ハートランド」発売前年の85年まで、キリンのシェア(販売ベース)は常に6割を超えていた。最大は76年で、63.8%。「ハートランド」発売の86年の時点でも59.9%と、ほぼ6割を維持している。

 キリンは14年間にもわたり圧倒的な強さを誇っていた。そのため、「キリン」という社名自体がブランド化していた。その象徴ともいえる聖獣「麒麟(きりん)」のイラストは、アサヒビール、サッポロビール、サントリーのライバル3社を寄せ付けない、圧倒的な競争力のアイコンともいえた。

 それゆえ、ビール販売量の大半を占める「ラガー」をはじめ、キリンの販売するビールは、「キリン」のロゴと聖獣「麒麟」のイラストを大きく掲げていた。もっとも、当時のキリンはこれ以上売り上げを伸ばせない状況にあった。73年以降、独占禁止法に抵触し、会社が分割される可能性に直面していたのである。

 ただ、「ハートランド」がキリンのロゴとイラストを外した理由は、その「シェアの取り過ぎ問題」のためではなかった。その理由を、キリン関係者は次のように語る。

「ハートランドの本当の狙いは、主力商品のラガーをたたき潰(つぶ)すことにあったのです。これは社内でも数人しか知らない極秘作戦でした」

 当時のキリンにおいて、「ラガー」はまさに聖域だった。ある意味「神」のように崇(あが)められていた。「キリンラガーしか飲まない」とある中堅商社のトップが宣言したと言われるほど、ビールといえば「ラガー」一択という時代があったのである。

 キリンの強さの理由は、家庭用に注力したことにあった。もともとビールは高級な酒だった。酒税が高く、しかも冷やして飲むため、戦前は料理屋やカフェで提供される酒だった。

 戦前には、大日本ビールが業務用を中心に7割を超えるシェアを持っていた。ただ、戦後にはその状況が一変する。49年、大日本ビールはGHQ(連合国最高司令官総司令部)によって、アサヒビールとサッポロビールに分割されてしまったのだ。

 56年には経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言。ただそれ以降も、アサヒとサッポロは「戦後」を脱することができなかった。大日本ビール時代に業務用ビールで市場を支配した「成功体験」を捨てられなかったからだ。

 一方、キリンはもともと業務用の販路が弱く、家庭用に賭(か)けるしかなかった。日本経済が高度成長期へ突入すると、各家庭には冷蔵庫が普及する。その結果、家でもキンキンに冷えたビールを飲むことができるようになった。

 そのおかげで、家庭でのビール消費が急増し、キリンのシェアも急拡大していった。70年代に入り、ほぼすべての家庭に冷蔵庫が普及する頃、キリンのシェアは6割を超えていた。この「シェア6割獲得」こそ、キリンにとっての「成功体験」だった。

<連載ラインアップ>
■第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは(本稿)
第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
■第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?(9月25日公開)
■第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?(10月2日公開)
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?(10月9日公開)

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