日本企業が賃上げもイノベーションもできない訳

賃金と物価

近年、企業利益は好調と言われているにもかかわらず、実質賃金が下落を続け、消費も低迷するという現象が起きています(写真:Rhetorica/PIXTA)
株式市場は「企業が資金を調達する場所」ではなく、「企業から資金を吸い上げる場所」と化し、持続不可能な「略奪的価値抽出」の仕組みが企業を滅ぼすと指摘する『略奪される企業価値: 「株主価値最大化」がイノベーションを衰退させる』(ウィリアム・ラゾニック/ヤン-ソプ・シン著)がこのほど上梓された。近年、企業利益は好調と言われているにもかかわらず、実質賃金が下落を続け、消費も低迷するという現象が起きている。なぜ、そのような現象が起きているのか。同書に収録された中野剛志氏による日本版解説を掲載する。

「革新的企業」の理論

本書の著者の1人、ウィリアム・ラゾニック(マサチューセッツ大学名誉教授)は、革新的企業の理論を構築した企業組織論の権威である。彼は、2010年にシュンペーター賞を受賞し、また2014年にはマッキンゼー賞を受賞するなど、その業績は非常に高く評価されている。

略奪される企業価値: 「株主価値最大化」がイノベーションを衰退させる

本書は、そのラゾニックによる重要な著作である。

そして、本書は、30年もの経済停滞に苦しむ日本の経済政策担当者たちや経営者たちにとっては、計り知れない重要性を持っている。なぜならば、彼らがずっと追い求め、そして得られなかった「革新的企業」の理論がここにあるからだ。

特に、近年は、企業の株価は過去最高値を更新して上昇し、企業の利益も好調と言われているにもかかわらず、実質賃金は下落を続け、消費も低迷するという現象が起きている。なぜ、そのような現象が起きているのか。その答えを、本書の「革新的企業の理論」が明らかにしているのである。

もちろん、本書におけるラゾニックの関心の中心は、日本ではなく、アメリカ経済やアメリカの企業組織にある。だが、そのアメリカの企業組織こそ、1990年代以降の日本が改革のモデルとしてきたものである。

そのアメリカの企業組織がどのように変遷し、そしてどうして変遷してきたのか。本書の中で、ラゾニックは、次のように描いている。

1960年代頃まで、アメリカの企業組織では、組織能力を向上するために「内部留保と再投資」を行う戦略的管理が行われており、それによって価値が創造されていた。

また、「終身雇用」の慣行があり、労働者は安定的な雇用を享受していた。「内部留保と再投資」そして「終身雇用」はかつての日本的経営の特徴であるかのように言われているが、実は60年代頃のアメリカの企業経営も同じようなものだったのである。

しかも、この時期は、アメリカの資本主義の黄金時代と言われ、高成長と格差の縮小を同時に達成していたのである。

正当化された「株主価値最大化」と「削減と分配」

しかし、1960年代の株式市場のバブルが1970年に崩壊すると、金融市場からの圧力もあって、企業分割がブームとなった。さらに、80年代には、企業を分割して売り飛ばし、利益を抜き取る敵対的買収が盛んとなった。

そして、分割した企業をばらばらにして高く売り飛ばすため、労働者を解雇して人件費を削減し、株価や配当を吊り上げるといったことが行われるようになった。

その結果、企業組織の行動原理は、かつての「内部留保と再投資」と「終身雇用」から、「削減と分配」へと変化したのである。

この「内部留保と再投資」「終身雇用」から「削減と分配」への転換を正当化したのが、1970年代から80年代にかけて台頭した「株主価値最大化」というイデオロギーであった。そして、この「株主価値最大化」のイデオロギーのベースにあったのが新自由主義であり、主流派経済学の市場理論である。

主流派経済学は、資源を効率的に配分する市場原理を前提とする理論である。

この理論からすれば、市場ではなく組織により資源を配分する企業組織は、「市場の不完全性」に過ぎないものと見なされる。資源配分は、企業組織の「内部留保と再投資」ではなく、株式市場に委ねるべきである。そうすれば、株価は、価格メカニズムを通じて、企業の価値を正確に反映し、株式の売買を通じて資源の効率配分が達成し得るであろう。労働も金融も市場に委ねれば、資本も労働も市場原理によって、最も効率的に配分されるのである。

このような主流派経済学の市場理論によって、「株主価値最大化」と「削減と分配」が正当化されたのである。

この「株主価値最大化」のイデオロギーは、1980年代半ば頃から、ビジネススクールを通じて、経営者たちに蔓延していった。そして、このイデオロギーに基づく制度改革が行われたのである。

「制度改革」の嵐

その制度改革は多岐にわたるが、主なものを列記すれば、以下の通りとなる。

1982年、アメリカの証券取引委員会(SEC)は規則10b─18を制定し、自社株買いを容易にした。経営者は、報酬の一部を自社株で受け取るストックオプションを利用すれば、自社株買いによって株価を吊り上げ、自らの報酬を増やすことができる。自社株買いは、経営者の経営目的を「株主価値最大化」へと振り向ける強力な制度となった。

1978年から79年にかけて、キャピタルゲイン税の最高税率が約40%から28%へと引き下げられ、1981年には、さらに20%まで引き下げられた。法人税の減税も、2001年、03年、17年に実施された。

1979年に、従業員退職所得保障法(エリサ法)が改変された。同法は、それまで年金基金の運用者に対して「プルーデントマン」ルールという受託者義務に違反した場合には個人的責任を負うように定めていたが、その義務が緩められたため、投機的な投資が可能となり、巨額の年金基金からの資金がシリコンバレーのベンチャーキャピタルへと流れ込んだ。このシリコンバレー式のベンチャーキャピタル・モデルは、90年代には全米に広がり、株式市場は投機化した。それは、90年代後半のいわゆる「ITバブル」を生み出したのである。

1980年代以降、「コーポレートガバナンス」改革の名の下に、株主利益を最大化すべく、機関投資家の企業に対する支配力を高める制度改変が行われた。特に、公的年金基金は、このコーポレートガバナンス改革の最も熱心な実践者となり、投資先企業が採用すべき「最良のコーポレートガバナンス実務」の指針を策定した。公的年金基金のリーダー的存在であったカリフォルニア州職員退職年金基金は、株式への投資を拡大したり、機関投資家アクティビストが標的を特定しやすくするために「業績不振」企業リストの策定を主導したりした。1985年には、議決権行使助言サービスを行うISS(インスティテューショナル・シェアホルダー・サービシーズ)が設立された。こうした制度改変が行われる中、企業に「削減と分配」を迫るヘッジファンド・アクティビストの力が大きくなっていった。

1980年代には、企業における確定給付型年金から確定拠出型年金への移行も進展した。確定拠出型年金では、従業員は自己責任で年金を運用することになる。これにより、企業は従業員の年金に関する責任から解放され、リストラによる人件費の削減がいっそう容易になったのである。

この過去40年間に及ぶ改革の結果、アメリカの企業では、生産性の伸びにもかかわらず、賃金はほとんど伸びなくなり、所得格差は甚だしいものとなってしまったのである。

端的に言えば、ラゾニックは、過去40年間のアメリカの企業組織の変遷を、価値を創造して利益を生み出す組織から、価値を奪い取ることで利益を生み出す組織へと変貌していった失敗の歴史として描いているのである。そして、この失敗の歴史を駆動していたのが、「株主価値最大化」というイデオロギーである。

アメリカの「改革」後追いがもたらした「失われた30年」

賢明な読者はすでに察していると思うが、日本は、この一連のアメリカの失敗を後追いしたのである。しかも、それを「改革」と称して、やり続けた。その時期は、「失われた30年」と言われる時期と一致している。

その30年間の日本の改革を、先述のアメリカの制度改革の変遷と比較しつつ、改めて振り返ってみよう。

1997年の改正商法によってストックオプション制度が導入された。さらに、2001年の改正商法で新株予約権制度が導入されたことで、ストックオプションの普及が促進された。この2001年の改正商法では、自社株買いについて目的を限定せずに取得・保有することも可能とされた。

さらに、2003年の改正商法では、取締役会の決定で自社株買いが機動的にできるようにする規制緩和が行われた。なお、この改正商法では、アメリカ的な社外取締役制度が導入され、外資による日本企業の買収が容易になった。2005年には会社法が制定され、株式交換が外資に解禁された。

1999年には、労働者派遣事業が製造業などを除いて原則自由化され、2004年には製造業への労働者派遣も解禁された。2001年、確定拠出型年金制度が導入され、従業員の年金に関する企業の責任は軽減された。

このように、1990年代から2000年代にかけての日本は、1980年代以降のアメリカの「コーポレートガバナンス改革」を模倣し続けていた。ところが、2010年代に入ると、そのアメリカにおいて、株主資本主義に対する批判の声が高まってくるようになる。

ラゾニックは、一貫して、株主資本主義に対する批判を続け、多くの論文や著作を発表し続けていたが、その彼の洞察が、この頃から、次第に高く評価されるようになってきたのである。

中でも、ラゾニックが2014年に『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌において発表した論文「繁栄なき利益(Profits Without Prosperity)」は、同誌の年間最優秀論文(マッキンゼー賞)に選出され、アメリカにおいて大きな話題となった。

同じ年には、かのトマ・ピケティによる『21世紀の資本』の英訳が刊行され、大ベストセラーとなっていた。

ピケティが示した格差拡大の要因の1つを、企業組織の観点から解明したのがラゾニックであると言ってもよい。

最も大きな賃金抑制圧力は「外国人投資家」

同じ頃、日本においても、同様の問題意識に立った研究が発表されつつあった。

例えば、2010年に野田知彦氏と阿部正浩氏が発表した研究は、2000年以降、金融機関と密接な関係を持つ旧来型の日本型ガバナンスがなされている企業では賃金が相対的に高く、外国人株主の影響が強い企業ほど、賃金が低くなっていることを明らかにした。そして、最も大きな賃金抑制圧力は、外国人投資家の影響であると結論したのである(野田知彦・阿部正浩(2010)「労働分配率、賃金低下」、樋口美雄(編)『労働市場と所得分配』慶應義塾大学出版会、第1章、3─46頁)。

さらに、2015年版の『労働経済白書』も、賃金が上がらない理由として、企業の利益処分の変化(株主重視)や非正規雇用の増大を挙げている。

このように、2010年代は、「株主価値最大化」のイデオロギーの弊害が顕著になり、資本主義のあり方そのものを転換しなければならない重要な時期であったのである。
ところが、2012年に成立した第2次安倍晋三政権は、「成長戦略」と称して、この「株主価値最大化」のイデオロギーに基づく改革を転換するのではなく、加速させたのであった。

例えば、2014年、家計の資金を投資に向かわせるための少額投資非課税制度(NISA)が導入された。また、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の公的・準公的資金運用やリスク管理体制などが見直され、ポートフォリオにおける国内および海外の株式の比率が高められた。

2015年には、企業に対する外部ガバナンスの規律である「コーポレートガバナンス・コード」が策定された。2014年8月、経済産業省の研究会が「持続的成長への競争力とインセンティブ〜企業と投資家の望ましい関係構築〜」プロジェクト「最終報告」なる文書を公表し、その中でグローバルな投資家に認められるROE(自己資本利益率)の最低水準は8%であると明記した。

ROEは、企業の自己資本(株主資本)に対する当期純利益の割合であり、分子の当期純利益を増やさなくても、株主還元により分母の自己資本を減らせば、簡単に数値を改善することができる。それゆえ、投資家がROEの改善を強く要求すれば、企業はその利益を株主に還元するようになるというわけである。このROE重視の動きを受けて、日本のISSは、2015年2月以降、過去5年の平均ROEが5%を下回る企業に対しては、株主総会で経営トップの選任案に反対票を投じることを機関投資家に推奨することとしている。

さらに、第2次安倍政権は、法人税の減税も行った。その結果、1997年には46.36%であった法人税実効税率は、2018年には29.74%にまで低下した。それだけではない。同年には入国管理法が改正され、2019年4月から一定の業種で外国人の単純労働者を受け入れることを決定した。この特定技能制度により、国内で賃金が上昇しようものなら、外国人労働者が流入して賃金上昇を抑制する仕組みが完成されたと言ってよい。

健全な経済成長の姿を取り戻すために

このように、1990年代以降の日本は、80年代以降のアメリカの改革をモデルとして、一連の「コーポレートガバナンス改革」を行ってきた。そして、当然の結果として、アメリカの失敗を後追いしたのである。

例えば、日本の大企業(資本金10億円以上)は、1997年から2018年に、株主への配当金を約6.2倍も増やした一方で、従業員給与は1997年を100とすれば2018年は96へと減少し、設備投資もほぼ同様に減少している(相川清「法人企業統計調査に見る企業業績の実態とリスク」『日本経営倫理学会誌』第27号、2020年)

ここまで愚かな改革を30年もやりまくっておきながら、日本の政策担当者や経営者たちは、今さら、「どうして賃金が上がらないのか」だの「どうして日本企業からイノベーションが生まれないのか」だのと悩んでいる。

だが、アルベルト・アインシュタインが言ったように、問題を発生させた時と同じ思考法では、その問題は解決できない。過去30年もの間、支配的であり、今も根強い影響力のある「コーポレートガバナンス改革」のイデオロギーを放棄し、ラゾニックの「革新的企業の理論」を理解することなしには、賃金上昇が主導する健全な経済成長の姿を取り戻すことはできないのである。

(中野 剛志 : 評論家)

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