ホスピス医が語る「人生最後の日」に人が望むもの

すべての人が後悔なく、満足してこの世を去るわけではないという(写真:mits/PIXTA)

人間にとって、人生最後の日が近づくというのは究極の苦しみかもしれません。ですが、人は「死」を前にすると必ず自分の人生を振り返り、その中であらためて「自分にとって本当に大切なもの」を見つけ、「生きる意味」を自らの力で生み出していくことができると、医師の小澤竹俊氏は語ります。
ホスピス医として4000人を看取ってきた小澤氏が振り返る、これまで出会った患者さんたちの「最後の日」とは。
※本稿は、小澤氏の著書『新版 今日が人生最後の日だと思って生きなさい』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

死を前にした親が子に望むのは「人格」と「人望」

私がこれまでに看取りに関わった患者さんの中には、幼いお子さんを残していかれる方も、たくさんいらっしゃいました。

そうした方々の多くは、決してお子さんに「地位や名誉を手にしなさい」「お金をたくさん稼ぎなさい」などとは言いません。

女親であれ男親であれ、会社員であれ経営者であれ、みな「勉強はそこそこでもいいから、人に愛されてほしい」「周りの人と支え合って生きていってほしい」と望むのです。

たとえば、私が受け持っていたある会社の社長さんは、がむしゃらに働いて、一代で会社を大きくしました。彼は人を信頼するのが苦手で、どんな仕事でも最終決定は自分で下していたため、常に多忙でした。

もちろん、家庭や自分の健康を顧みることもなく、がんが発見されたときには、病状はかなり進行していました。体力は急激に衰え、当然のことながら、出社どころではありません。ワンマンだったため、社員との関係もうまくいっておらず、がんであることがわかったとたん、部下や取引先は潮が引くように離れていきました。

その患者さんは、「自分の人生は、いったい何だったんだろう」「自分の生き方は正しかったのだろうか」と考えるようになり、私にこう言いました。

「私は心のどこかで、自分はみんなから好かれている、信頼されていると思っていました。でもそれは、おごりでした。みんなが信頼していたのは私ではなく、私が動かしている仕事やお金、それだけだったのです。あれだけ飲んで食べて語り合って、わかり合えるところがあると思っていましたが……。こんなに寂しいことはないですね」

大切に育ててきた会社すらも失うことになってしまい、彼は「せめて子どもには、人間関係の大切さを、ちゃんと伝えたい」と思ったそうです。

この世を去る前に、本当に大切なこと、お子さんに伝えたいことがわかり、気持ちに変化が訪れたのでしょう。その患者さんはとても穏やかな表情になっていました。

老いて、病いを得ることで人生は成熟していく

「人に迷惑をかけるくらいなら、早く死んでしまいたい」

人生の最終段階の医療に携わって30年。私はこの言葉を、数えきれないほど耳にしてきました。

「人に迷惑をかけたくない」という思いに苦しむのは、元気なときに、自分の人生をしっかり自分でコントロールしてきた人が多いようです。

「自分は、こうでなければならない」という思いが強い人、「人に頼らない」を信念としてきた人、「努力すれば報われる」という信念を持ち、厳しい競争社会を闘い抜いてきた人……。そのような人ほど、人生の最終段階で、それまでの価値観がまったく通用しなくなり、アイデンティティを失ってしまうのです。

そして、「死にたい」と思うようになったり、自分をコントロールできないいらだちを、家族や医療スタッフ、介護スタッフにぶつけたりするようになります。

また、幼い子どもがいる親御さんや、会社を経営していた社長さん、財産がありすぎるお金持ちなども、苦しむ方が多いようです。この世に残していく子どもや会社、お金のことが気がかりで、「生きていたい」という思いが強いためです。

しかし、こうした患者さんたちも、苦しみ抜いた果てに、少しずつ自分が抱えていたもの、それまで頑なに守っていた信念などを手放し、他人にゆだねるようになります。

「自分で何でもできて当たり前」という思いや、「役に立たない自分は価値がない」という思いから解き放たれ、他人の世話になることを受け入れたり、子どもの行く末を誰かに託したり、会社やお金を後継者に譲ったりするようになるのです。

手放し、ゆだねる覚悟を決めた患者さんからは、怒りや悲しみ、焦りなどが少しずつ消えていきます。そのためには、ゆだねることのできる相手が必要ですが、それは必ずしも「人」でなくてもいいと私は思います。

これまで私が看取りに関わった患者さんの中には、自然が大好きで「自然が常に自分を守ってくれている」と言っていた方や、信仰心が篤く、「神様が守ってくださっているから大丈夫。何も怖くありません」と言っていた方もいらっしゃいました。

いずれにせよ、ゆだねる相手をしっかりと信じることができれば、たとえ明日が人生最後の日だとしても、人は穏やかに、幸せに過ごすことができるのではないかと、私は思います。

死は耐えがたい「絶望」と「希望」を一緒に連れてくる

命に関わる病気であることがわかったとき、あるいは余命を宣告されたとき、一番辛いのは、もちろん本人です。

しかし、そばで見守るしかない家族の心労も相当なものです。特に余命宣告を受けたのが子どもだった場合、ご両親は大きなショックを受けます。以前、がんであることがわかり、余命半年と宣告された18歳の男性の看取りに関わったことがあります。

彼は自分自身で病気や治療方法について調べ、抗がん剤などによる治療を受けないと決めました。そうした治療に時間を費やすよりも、残りの時間を自分らしく自由に過ごしたいと考えたのです。しかしご両親は、わずかでも可能性があるなら治療を受けさせ、息子に1日でも長く生きてほしいと望みました。

ご両親の意見と、「自分の選択を尊重し、見守っていてほしい」という患者さんの意見は真っ向から対立し、親子の間には一時、険悪な雰囲気が漂いました。どちらの言い分もわかるため、私もずいぶん辛い気持ちになったものです。私は定期的に患者さんのもとに通い、患者さんからもご両親からも、たくさんの思いと言葉を聴きました。

やがて、ご両親は葛藤の末に、患者さんの意思を全面的に受け入れる覚悟を決めました。

「少しでも長く生きてほしい」という自分たちの願いをあきらめ、息子の最後の望みを聞き入れる。それは、非常に辛い決断です。けれど、その決断によって、親子は良好な関係を取り戻し、ご両親が患者さんと腹を割って話す機会も増えました。

患者さんがこの世を去るまでの、わずかな時間。それは、患者さんにとっても、残されるご家族にとっても、非常に貴重で大切なものであり、できればお互いにとって穏やかで幸せなものであってほしい、と私は思います。

しかし、この親子にとっては、お互いが本当の意味で理解し合い、支え合うため、気持ちをぶつけ合うことも必要だったのかもしれません。

誰かに看取られるなら、それ以上の幸せはない

死を前にした患者さんの多くが、自宅に帰ることを望みます。最新設備を誇る病院やホスピスのきれいな病室にいるよりも、古くてシミだらけの我が家の天井を見ていたほうが、心が安らぐというのです。

ホスピスから帰られたばかりの、ある男性の患者さんのお宅を訪ねたときのことです。家自体、決して新しくはなく、しかもすぐそばを私鉄の線路が走っていたため、部屋には数分おきに電車の轟音が鳴り響きます。

それでも患者さんは、家に帰ってきてからのほうが気持ちが落ち着くし、体調もいい気がすると、とても満足した様子でした。また、ご本人だけではなく、ご家族も、患者さんの表情がホスピスにいたときよりも穏やかになっているのを見て、「自宅に帰る」という決断が間違っていなかったと確信したそうです。

実際、病院にいたときと同じ薬を飲んでおり、病状にも変化がないにもかかわらず、家に帰るだけで表情がガラリと明るくなるという方は少なくありません。たとえ一時帰宅であっても、「やっぱり、家はいいね」と言うのです。

一方で、在宅よりも病院のほうが向いている人もいます。病気に対する不安感が強く、呼べばすぐに看護師や医師が来てくれることに安心する人は、病院で過ごすほうが精神的にも安定するかもしれません。

また、「1人でトイレに行けなくなったら、病院でも施設でもいいから入りたい」という患者さんもいます。「家族に下の世話をさせるのは申し訳ない」と思う人は、そのほうが安心して過ごせるでしょう。

人生の最後をどこでどのようにして迎えたいか。それは人によって異なります。しかしいずれにせよ、必要な設備が整備され、人材が育成され、すべての人が、その人が望むかたちで、穏やかな気持ちで人生最後のときを過ごせるような世の中であってほしい。私はそう願っています。

(小澤 竹俊 : 医師)

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