早慶で「サークルに青春を捧げた男」驚きの20年後

イベントサークルに全力を注いでいた若き日の依田さん(写真:依田さん提供)
「学校ではずっと劣等生でしたが、ここには居場所がありました」
1990年代から2000年代初頭に盛り上がったイベントサークル、通称”イベサー“。
難関中高一貫校に合格し、そのままエリートコースを進むはずが高校中退。その後、大検で有名私大に入学、若くして司法試験にも合格するものの、一転、進路を変更。経済産業省に入省し官僚となるも退職、また違う道を歩む依田俊一さん(30代)。
彼が、それでも後悔はないと語るイベサーでの活動とはなにか。その後の人生への影響、そしてそれらから学んだこととは――。

早稲田実業に中学で合格するものの・・・

ベージュのスーツを着て爽やかに待ち合わせ場所に現れた弁護士の依田さん。休日はゴルフやジムでトレーニング、映画鑑賞など、外に出てアクティブに活動することが好きだという。また、海外旅行も趣味で、今まで訪れた国はインド、タイ、ジャカルタ、ポーランドなど多数にのぼり、コロナ禍前は年2回程度海外に足を運んでいたそうだ。

現在は弁護士をしながら投資ファンドの社員として、投資先企業の役員としても活躍中。

そんな依田さんはここに至るまで、紆余曲折、アップダウンの激しい人生を歩んできた。

中学受験では早稲田大学の付属、難関・早稲田実業に合格。エリートコース一直線、順風満帆のように見えるが、実情は想像と違ったという。

猛勉強して入った中学は、1年生の6月頃にはつらいと感じた。

【画像4枚】早稲田・慶応にもたくさんいた「ギャル男」・・・日焼けした肌に茶髪ピアス姿がはまっている依田さん

「学校の授業についていけませんでした。中学に入るまでそれなりに勉強できるほうだと思っていましたが、テストの結果も散々で……。部活は野球部に入りましたがここでもついていけず、入部して3、4カ月で退部しました。当時の友達とは今でもいい関係が続いてますし、あのとき出会えたことは人生の宝だと思います。でも、折り合いの悪い先生もいましたし、学校に関してはまったく楽しくなかったです」

元々、好きか嫌いかがハッキリしている性格で、勉強ができないと自覚した途端、学習に対する意欲を無くしてしまった。気づけば劣等生として扱われ、成績は1学年200人中下から3番目。当初、中学から付属の高校には99%以上進学できると聞いて入学したが、本当にスレスレのラインでなんとか高校進学できることになった。

高校1年で「イベサー」にハマる

無気力気味だった依田さんだが、高校に入ると、彼の人生に大きな影響を与える活動に出会う。当時、全盛期だったイベントサークル、通称イベサーだ。

イベサーとは1990年末期から2000年代初頭にかけてクラブイベントなどを主催していたサークルで、渋谷を中心に何十~何百と活動するサークルが存在した。複数の学校で構成されるグループや、地元のメンバーで結成されるもの、サークルによって属性も特徴もマチマチだったが、参加者には進学校やエスカレーター式の付属校に通っている学生も多かった。

イベサーに熱中していた当時の依田さん(写真:依田さん提供)

依田さんが先輩に誘われてイベサーに入ったのは高校1年生の7月頃。当初5人だったイベサーに依田さんが加入すると徐々に人数が増えはじめ、気づけば50人規模のイベサーに拡大。10人程度のイベサーもある中で、50人規模の人数が集まる団体は、高校生のイベサーとしてはかなりの大所帯で、巷では有名な団体の一つだったと語る。

イベントの頻度は約3カ月に1回程度。週2回はみんなで集まってミーティングしたりイベントの準備をしていたという。1回イベントを主催すると場所代やその他経費で100万、多いときは200万ほどかかることもあり、自分たちのイベサーだけでイベントを開くこともあれば、他のイベサーと合同でイベントを開くこともあった。大規模なイベントになると参加者が1000人、2000人となることもあったという。

「学校とは違う世界が広がっていました。渋谷センター街に行けば約束をしなくても友達がたくさんいるし、センター街のマクドナルドや当時はロッテリア、今はバーガーキングになっている店とか、ファーストフード店は高校生の溜まり場でしたね。

また、イベサーではパンフレットも作って自分たちの顔も載せていたので、まわりにもどんどん知られていくんですよ。渋谷にいるだけで知らない人から声を掛けられることもよくあって、そういうのって高校生の頃はちょっと嬉しいじゃないですか。ストリートでの立ち位置が上がっていく感じもして楽しかったです」

イベサーの活動が活発になるにつれて自己肯定感もどんどん上がっていった。自分が有名になっていろいろなところで顔が利くようなる喜びや影響力、権力欲もあったかもしれない。

また、学校では劣等感を抱いていたぶん、イベサーをやることで承認欲求が満たされるような感覚もあった。

無期停学から退学、そして・・・

しかし、イベサーの活動に精力を注ぐ一方で、高校生活には精力を注げなかった。

「イベサーが楽しくて家に帰らないか、帰っても終電で帰ることが増えました。朝は当然起きられないので、昼過ぎに学校に行くこともしょっちゅうでしたね」

当時の依田さん(写真:依田さん提供)

さらに、学校では素行の悪さも目立っていた。当時の依田さんはピアスを10個以上あけている、既定のセーターを着ていない、髪の毛が長く染めているなど、決定的な大きな悪さや違反はなかったというが、普段の態度の悪さが積もりに積もり、高校1年生の冬に学校から10日程度の停学を言い渡される。

その間、学校から毎日、反省文を書くように言われたが、依田さんは拒否。その結果、無期停学が1、2カ月程度続いた後、出席日数が足りずに留年となった。

その後、2回目の1年生を過ごす中、しばらくは頑張って学校に通っていたが、夏休みがあけた9月。またもや素行の悪さから無期停学に。その間、ここから再度進級することは難しいと考えて、自ら退学することを決めた。

退学することに迷いはなかったし、学校を辞めた後も落ち込むことはなかったという。「学校を辞めても自分にはイベサーという居場所がありましたし、イベサーでルーティンとしての仕事があったので暗くならずに済んだような気がします」と語る。

高校を退学すると大検を受けて合格。大学受験の勉強もはじめた。世間の高校3年生が学校を卒業し、1浪して受験、合格するタイミングで、依田さんも19歳で慶応義塾大学に合格して大学生になった。ここでも早稲田時代の友達とイベサーを作り、100人規模まで拡大。精力的に活動し、一定の満足感を得た。そして元々の同級生が大学3年生になって就活をはじめるタイミングで、大学2年生だった依田さんもイベサーを引退した。

大学卒業後も変化は続く。依田さんは、早稲田大学法科大学院に入学するが途中で退学し、東京大学法科大学院に入学。25歳のときに見事司法試験に合格するものの、法曹の道には進まず、2014年に経産省に入省した。

現在の依田俊一さん/法律事務所Zパートナー弁護士、プライベートエクイティファンドファンドマネージャー、投資先企業(#FR2を展開する株式会社せーの等)の役員、株式会社REVOLUTION(東証スタンダード8894)監査等委員取締役、株式会社ネイリー監査役、渋谷女子インターナショナルスクール講師、デジタルエンターテイメントコンソーシアム アドバイザ、弁護士

経産省で働くことを希望したのは、日本の経済力の将来に不安や改善を感じていたこと、また、当時経産省がクールジャパンを推進していたことにも興味があったという。

しかし意気込んで入った経産省は1年程度で退職することに。なぜか。

「中小企業の金融支援を行う部署に所属しましたが、経産省で最も忙しい部署のひとつでした。朝8時半に職場に行って帰宅は終電かタクシー。昼休みは廊下で売っているお弁当を急いで買ってご飯を食べながら仕事をするんです。日中はまったく自由がなくて想像以上にハードでした。多忙といえば、イベサー時代もかなり多忙でしたよ。でも、自主的に動ける忙しさは大丈夫なんですが、経産省ではそうもいかなかったですし。

経産省の仕事は代えがたい仕事だと思いましたし、上司に退職の意志を伝えたときはとどまるように説得されて、心が揺らぎました。それでも精神的に限界に達していたし、今後のキャリアを考えて入省して1年で退職をしました」

希望して入った職場だったが、思い描いた経産省官僚の仕事はできなかったと遠くを見た。

イベサーを通じて学んだ大事なこと

経産省退職後は、弁護士として法律事務所に4年勤務。その後、友人と共に弁護士事務所を設立し、現在は弁護士事務所と投資ファンドの投資先の会社の役員および上場企業の社外役員として数カ所で働いている。

弁護士になった後も変わらず多忙だが、自分主導で仕事がすすめられるので苦ではないという。

改めて、今までの経歴から現在の仕事をするうえで生かせたことはあるか聞いた。

「イベサーの活動を通して50人、100人規模の組織を動かす経験が学生時代に経験できたことは大きかったと思います。たくさんの人がいる中で、組織として今どんな問題点があるのか。誰にどう声を掛けたらスムーズに進むのかといったことを、当時から客観的に見て分析していました。

たとえばリーダーの立場に立つと、自分が指示を出しているのに人が動かない。または、いちメンバーの立場になると頑張ったところで自分にリターンが来ない。モチベーションが上がらないなど、それぞれの立場で考えがあります。一つの方法として、もっとメンバーに権限を与えて仕事にコミットするように促すとか、参加者意識をもたせること。

コミュニケーションをとりながら、自分がそこにいることが楽しくなるような気持ちにしていくと、組織としてもいい方向に進むことも学びました。こうした経験は今の仕事を進めるうえでも役立っていると思います」

人生は「その後の行動次第」

また、今までの人生を振り返ると、高校中退、大学院中退、経産省退職など、その時々で学校や職場、進路を変更しながら今にいたる。自分の決断に対して思うことを聞くと、

「当時は高校中退することに迷いはなかったのですが、少し時間が経ってから、意外と早稲田という名前にアイデンティティをもっていたことは自覚しました。

また、大検を取得して浪人生活をしていたときは、先に同じ年の友達が大学生になったことで、コンプレックスも感じました。経産省を辞めたときも迷いはなかったのですが、代えがたい仕事を辞めたと今でも多少は振り返ることもあります。

でも……、無理して合わないことを続ける必要はないですし、違和感がある状態で長い間、貴重な時間を使うなら、早く自分がやりたいことをやったほうがいい。自分の人生はその後の行動次第だろうと思うんです。

また、学校や経産省を辞めるときも、次のプランを考えたうえで辞めています。高校中退する時点で大学受験を、早稲田の大学院を辞めたときは東大の大学院を、経産省を辞めたときは弁護士と、その時々で先を考えて、自分の信じる道を進んできた結果が今につながっていると思います。

仮に何かを辞めて失敗だと感じたとしても、また違ったプランで頑張れたらいいなと思うんです。私は学校中退や経産省も退職をしていますが、その後納得のいかない生き方や働き方をしていたら後悔していたかもしれませんが、自分が納得するような道を進めているので後悔もなく、今は充実しています」

清々しい笑顔を浮かべる依田さんの生き方から、私たちが学べることは少なくない。

(松永 怜 : ライター)

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