虎に翼モデル「三淵嘉子」が愕然とした"差別文言"

虎に翼 三淵喜子 佐田寅子

『虎に翼』(写真:NHK公式インスタグラムより引用)
NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が放送以来、好調をキープしている。毎朝の放送のたびに、SNSでも大きな話題となっているようだ。主人公・佐田寅子(ともこ)のモデルとなっているのが、女性初の弁護士で、女性初の裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)である。実際にはどんな人物だったのか。解説を行っていきたい。

成績優秀でも不安だった「司法科試験」

「法律を勉強なさるのですか。それはおやめになったほうがよろしいですよ」

明治大学専門部女子部法科で法律を学ぶことを決意した三淵嘉子は、母校の高等女学校に卒業証明書をもらいにいくと、女性教師からそう苦言を呈されたという。

「お嫁のもらい手がありませんよ」とも言われたが、嘉子の気持ちが揺らぐことはなかった。「父の了解を得ていますから」と伝えて、嘉子は意志を貫いている。

その背景には、父からかけてもらった忘れられない言葉があった。また、当初は法律を勉強することに反対していた母も、嘉子の思いを知ってからは、誰よりも応援してくれたことも大いに励みになったことだろう(参考記事【「虎に翼」のモデル"三淵嘉子"人生支えた父の一言】)。

嘉子は明治大学専門部女子部(3年生)でかけがえのない仲間を得て、法律の勉強に邁進する。時にはハメをはずしながらも(参考記事【「虎に翼」モデル"三淵嘉子"大胆すぎるスキー事件】)、20歳で女子部を卒業すると、明治大学法学部に編入。男子学生と共学という大きな環境の変化のなかでも、嘉子は変わらずトップの成績を維持し、首席で卒業を果たすことになる。

虎に翼 三淵喜子 佐田寅子

三淵嘉子が学んだ明治大学(写真: route134 / PIXTA)

それだけ優秀な嘉子でも、卒業後の司法科試験は、大きなプレッシャーだったようだ。当時、司法科の試験は論文の筆記試験を日曜日以外の7日間で行い、それに合格したものが、口述試験に進むという形式だった。

試験後に自宅の玄関で泣き崩れた

筆記試験が7日もあれば、うまくいかない日も当然出てくることだろう。ある筆記試験のときには、帰宅した嘉子が玄関で「試験に失敗した……」と泣き崩れて、家族を驚かせたこともあった。

事情を知って嘉子のもとへと急いだのは、野瀬高生である。当時、嘉子の家には、書生として住み込んでいた学生がおり、野瀬もその1人だった。

野瀬はちょうど嘉子が試験を受ける2年前に、司法科試験に合格。東京で司法官試補として働いていた。嘉子の母親から連絡を受けると、野瀬は嘉子に会いに行き、どんな答案を書いたのか詳しく聞いてみた。

すると、どうも内容的には問題がなかったらしい。野瀬から「絶対大丈夫」と励まされたことで、嘉子は気持ちを立て直す。翌日からまた受験に臨んでいる。

昭和13(1938)年11月1日、司法科試験の合格者がラジオでも報じられると、新聞各紙のメディアはこぞって記事に取り上げた。受験者数2986人のうち、合格者は242人で、そのうち3人は女性だった。

筆記試験では泣き崩れた日もあった嘉子だったが、蓋を開けてみれば、抜群の成績での合格だったというから、さすがである。

嘉子は試験対策として、半紙を縦二つ折りにし、左に問題を右に答えを対比させるという形式で、オリジナルのサブノートを作っていた。合格のために必要な要素が詰まった秀逸なサブノートだと、周囲も絶賛。勉強法1つとっても、自分の頭で考え抜くのが、なんとも嘉子らしい。

嘉子は、女性初の合格者の1人として、歴史に名を刻むことになった。

この年、つまり昭和13(1938)年に嘉子のほかに合格した女性は、中田正子と久米愛だった。

司法科の試験を女性も受けられるようになったのが昭和11(1936)年であり、19人の女性が受験するも合格者は0人。その翌年の昭和12(1937)年に、初めて女性で筆記試験に合格したのが、この中田正子である。

残念ながら、そのときは口述筆記で不合格となり、女性初の弁護士誕生とはならなかった。「女性だから落とされたのではないか」とも言われたが、昭和13年に、嘉子らとともについに合格し、リベンジを果たすことになった。

女性は裁判官にも検察官にもなれなかった

初めての女性弁護士が一気に3人も出た……というニュースにマスコミは飛びついた。「女性が司法科に合格した=女性弁護士の誕生」と騒がれたのは、当時はたとえ司法科試験に合格しても、裁判官や検察官になれるのは男性のみで、女性にはその道が閉ざされていたからである。

口述試験場にあった「裁判官募集」の紙に「裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る」と書かれているのをみて、嘉子は人知れず、唇をかみしめていた。のちにこう振り返っている。

「なぜ日本帝国男子に限るのか。同じ試験を受けて、どうして女子ではダメなのかという悔しさが猛然とこみあげてきたことが忘れられません」

そんな嘉子にとっては、司法科の試験に突破した途端に「女性弁護士誕生」と騒がれることにも、違和感を抱かずにはいられなかったことだろう。

さらに嘉子は、女性弁護士の誕生に沸くマスコミからの取材に対して、まったく別の角度からも違和感を持っていた。それは、法律家を志した動機として記者から「か弱き女性の味方になろうとしたのですか」としきりに質問されることだった。

もちろん、女性の地位や権利がいかに惨めなものなのかは、嘉子が法律を学べば学ぶほど実感したことだ。多くの女性が虐げられていることに、無自覚ですらあったと、心を痛めたのも事実である。

それでも、嘉子には、どうしても当時の報道姿勢に引っかかるものがあった。月日が経ってから、胸のモヤモヤをこう説明している。

「私が弁護士を志した動機、そしてこれから弁護士として生きていく目標がか弱き女性のためかといわれると『ハイ』とはいえなかった。女性を含めて困っている『人間』のために何か力になりたいという思いだった」

生涯を通じて「男女平等」を信念に

報道が行われた当時は、 昭和12(1937)年に日中戦争が開始されて、軍国主義に染まりつつあった頃である。

「女性は家庭で戦地の男性をバックアップすべきだ」というムードが高まるなかで、マスコミはそんな社会情勢への反発もあり「女性弁護士誕生」を過熱的に報道したのではないか――。嘉子はそんなふうにも分析している。

そして生涯を通じて「人間として男性も女性も同じだ」という信念を、嘉子は貫くのであった。

(つづく)

【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 ‎『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた”トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)

(真山 知幸 : 著述家)

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