虎に翼のモデル「三淵嘉子」心に残る裁判長の一言

虎に翼 三淵喜子 佐田寅子

『虎に翼』(写真:NHK公式サイトより引用)
NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が放送以来、好調をキープしている。毎朝の放送のたびに、SNSでも大きな話題となっているようだ。主人公・佐田寅子(ともこ)のモデルとなっているのが、女性初の弁護士で、女性初の裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)である。実際にはどんな人物だったのか。解説を行っていきたい。

驚くべき新民法の内容に息をのむ

納得できないものには、「おかしい」ときちんと声を上げる。NHKの連続テレビ小説『虎に翼』の主人公・佐田寅子(ともこ)は、そんなキャラクターとして描かれているが、モデルとなった三淵嘉子がまさにそんな性格だった。

司法科試験を受けたとき、口述試験場にあった「裁判官募集」の紙に「裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る」と書かれていることに、嘉子はどうしても納得できなかった。そこで、弁護士から裁判官に転身すべく大胆な行動に出る。

昭和22(1947)年3月、いきなり裁判官採用願を司法省人事課に提出。東京控訴院長の坂野千里との面接に臨んでいる。

その結果、「まもなく施行される新憲法のもとで最高裁判所が発足してから、初めての女性裁判官が任命されるのがタイミングとしてはよいだろう」と先送りにされたのだという。

すぐに裁判官になることは認められなかったものの、嘉子はそのときが来るまで、司法省の民事部で勉強することになった(前回記事「虎に翼のモデル「三淵嘉子」裁判官に転身した理由」参照)。

同年6月、嘉子は民事部の民法調査室に配属。民法の改正作業を手伝うことになる。新民法の草案を読んだときの衝撃を、嘉子はこんなふうに語った。

「女性が家の鎖から解き放され、自由な人間として、スックと立ち上がったような思いがして、息をのんだものです」

最高裁判所は昭和22(1947)年5月に設立され、8月には本格的に発足。だが、嘉子はまだ現場の裁判官にはなれず、引き続き事務方として経験を積んでいる。

「家庭裁判所の父」とともに家庭局を盛り上げる

昭和22(1947)年12月22日、日本国憲法の基本原理に基づいた改正が行われて、新民法が成立。年が開けて、昭和23(1948)年1月から施行されることになると、嘉子は司法省から最高裁民事局へと移っている。

さらに、最高裁判所事務総局に新設された家庭局の事務官も兼任したようだ。家庭局の初代メンバーに、嘉子は「事務官」として名を連ねている。家庭局長はのちに「家庭裁判所の父」と呼ばれる宇田川潤四郎が務めた。

虎に翼 三淵喜子 佐田寅子

家庭裁判所(写真:ペイレスイメージズ 2 / PIXTA)

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』では、この潤四郎をモデルにした人物として、滝藤賢一演じる多岐川幸四郎が登場し、異彩を放っていた。鼻下にチョビヒゲを生やしていたことや、演説が得意で何かと熱弁したことは史実どおりで、実際の潤四郎もそんなユーモラスな男だったらしい。

もっとも嘉子もムードメーカーという点では、負けていなかった。嘉子の死後に刊行された追想文集『追想のひと三淵嘉子』には、多くの関係者による嘉子との思い出が綴られている。そのなかで同僚だった八島俊夫は、嘉子の様子をこう書いている。

「和田さんは、いつも大きな風呂敷包みを持って通勤しておられました。当時、小さな子供さんをかかえての生活は大変だったようですが、そんな素振りは言葉にも態度にも何一つ現されることなく、あの可愛いえくぼのある丸ぽちゃの顔に、いつも微笑みをたたえながら、よく動いておられました」

仕事後に、最高裁家庭局のメンバーで懇親会が開かれたときにも、嘉子はよく顔を出した。干物などをあぶりながら、焼酎を分け合っては、交代で歌を歌うのがお決まりの流れだったとか。なかでも嘉子の歌は場を大いに盛り上げたという。

「和田さんは、『コロッケのうた』や『うちのパパとママ 』 (筆者注:正式名称は『モンパパ』)などうたわれましたが、皆が希望したのは、当時流行していた『リンゴの唄 』でした。本当に、リンゴのように真っ赤なほっぺをして、きれいなアルトでたのしそうにうたっておられました」(八島俊夫「りんごの歌」三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』より)

全国49カ所に家庭裁判所ができたのは、昭和24(1949)年1月1日のことである。新民法のなかで男女平等がうたわれたことで、当時の家庭裁判所には、家庭でトラブルを抱えた母親が殺到した。

「駆け込み寺」のようなカオスのなかで、相談者1人ひとりに向き合うには、潤四郎や嘉子のような明るいキャラクターが欠かせなかったことだろう。

女性進出を阻む男性の「必要以上のいたわり」

事務方としてそんな密度の濃い経験をした嘉子は、昭和24(1949)年8月、ついに東京地方裁判所の判事補となる。

すでに同年4月に、日本における女性初の判事補として、石渡満子が東京地方裁判所に赴任しており、嘉子はそのあとに続いたことになる。ちなみに、同じタイミングで門上千恵子が東京地方検察庁検事に任官。日本における初めての女性検事も誕生した。

この昭和24(1949)年以降、毎年のように1~2名の女性裁判官が任命されることになり、東京のみならず、地方の裁判所にも女性が配置されるようになる。

だが、裁判官の人数自体が少ない地方では、必ずしも女性裁判官は歓迎されなかった。そこには「男性側のいたわり」があるということに嘉子は気づく。

具体的には、残忍な殺人事件や、強姦事件を女性裁判官には担当させづらく、やはり女性裁判官は男性裁判官と同じようには扱えないという雰囲気があったという。

これは何も裁判官の仕事に限らず、弁護士や検察官であっても同様だとし、嘉子は「私の歩んだ裁判官の道」で、次のように分析している。

「女性が職場において十分に活躍できない原因の一つに男性側の女性への優しいいたわりから来る特別扱いがある。裁判官のみならず検察官、弁護士の場合でも女性に対しては初期の頃は男性側が必要以上にいたわりの心遣いをし、それが女性法曹を扱いづらいと思わせていたのではなかろうか」

そんな状況だっただけに、嘉子が東京地裁の裁判官になったときに、裁判長の近藤莞爾からかけられた「あなたが女だからといって特別扱いはしない」という言葉が心に残った。嘉子は小林のことを「私の裁判官生活を通して最も尊敬した裁判官であった」と振り返っている。

日本で初めての女性判事となる

それから3年後の昭和27(1952)年4月1日、嘉子は名古屋地方裁判所の判事となる。日本では初めての女性判事の誕生となった。

(つづく)

【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 ‎『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版

(真山 知幸 : 著述家)

ジャンルで探す