虎に翼のモデル「三淵嘉子」裁判官に転身した理由

虎に翼 三淵嘉子 佐田寅子

虎に翼(写真:NHK公式サイトより引用)
NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が放送以来、好調をキープしている。毎朝の放送のたびに、SNSでも大きな話題となっているようだ。主人公・佐田寅子(ともこ)のモデルとなっているのが、女性初の弁護士で、女性初の裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)である。実際にはどんな人物だったのか。解説を行っていきたい。

三淵嘉子に憧れて満州から来た学生も

我が国において、三淵嘉子は女性で初めて弁護士になった。しかし、昭和16(1941)年12月に太平洋戦争が始まると、状況は一変する。

国が戦争している最中に、国民が私的な争いで、お上を煩わせてはならない……そんなムードのなか、民事訴訟の数は激減。弁護士活動よりも、母校の明治大学女子部法科での教師活動のほうが、メインになっていった(参照記事「虎に翼モデル「三淵嘉子」弁護士でも開店休業の訳」)。

そんななか「日本では女性初となる弁護士が誕生!」というニュースを観て、法律家を志した女性も少なくなかった。なかには、満州国から明治大学女子部法科に入学した者もおり、憧れの嘉子に会ってドキドキしていると、「遠くからよく来られたわね」と優しい笑顔で声をかけられたという。

嘉子自身も勉強に励みながら、仲間との学生生活も存分に楽しんだだけに、満州からやってきた女学生にも、そんな充実した日々を送ってほしいと応援したい気持ちでいっぱいだったのではないだろうか。

彼女が靴に不自由をしていると知ると、嘉子は「あそこなら作ってくれるかもしれない」と言って、横浜元町の靴屋まで連れて行ってくれた……と、当人がのちに感謝を込めて、嘉子と思い出をつづっている。

結婚生活たった4年半で夫を亡くす

それと同時に、そんな刺激的な学びの日々が、戦争によって奪われていく様についても、満州から来た女学生は、こんなふうに書いている。「和田先生」「武藤先生」とは嘉子のことだ。

「戦争がだんだんひどくなって来て、法律の勉強の外に、防空演習、救護訓練など、さかんにやらされるようになり、和田先生となられた武藤先生も、先に立って訓練に出られ、大変な時期も御一緒に過ごしました」
(平林英美「三淵さんとの出会い」三淵嘉子さん追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』三淵嘉子さん追想文集刊行会より)

やがて、嘉子の夫・和田芳夫のもとに召集令状が届く。一度目は健康の都合で見送られるも、翌年に再び召集がかけられて戦地へ赴くことになる。

そして昭和21(1946)年5月23日、夫の芳夫は上海から引き揚げて来る途中で、持病の肋膜炎によって病死。長崎の陸軍病院で亡くなることとなった。

結婚してからまだ約4年半しか経っていなかったが、嘉子は夫と死別し、息子の芳武を育てていくことになった。

嘉子が弁護士から裁判官に転身したのは、夫の死がきっかけだったという。「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」で、嘉子自身が胸中を明かしている。

「戦後、出征していた夫が引揚途次に戦病死したので私は経済的自立を考えなければならなくなった。それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持から真剣に生きるための職業を考えたとき、私は弁護士より裁判官になりたいと思った」

さらにいえば、弁護士の仕事をしていて「依頼者のために白を黒といいくるめないといけない」ということがあったのも、嘉子にとっては耐えがたいものがあったようだ。本当に正しいことをはっきりさせたい。そんな思いから、嘉子は裁判官への転身を決意した。

そのときに蘇ったのが、試験場での忌々しい記憶だった。口述試験場にあった「裁判官募集」の紙には、次のように書かれていたという。

「裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る」

当時はたとえ司法科試験に合格しても、裁判官や検察官になれるのは男性のみ。女性にはその道が閉ざされていたが、嘉子はどうしても納得できなかった。「そのときの怒りがおそらく男女差別に対する怒りの開眼であったろう」とも言っている。

男女平等が宣言された以上、女性を裁判官に採用しないはずはない――。そう考えた嘉子は昭和22(1947)年3月、裁判官採用願を司法省に提出。東京控訴院長の坂野千里との面接に臨むことになった。

裁判官に採用されずとも貴重な経験を積む

しかし、面接の結果、嘉子はすぐには裁判官にはなれなかった。まもなく新憲法のもとで最高裁判所が発足することになっていたため、面接官となった坂野からこんな説明がなされたという。

虎に翼 三淵嘉子 佐田寅子

最高裁判所(写真: kash* / PIXTA)

「初めて女性裁判官が任官されるのは、新しい最高裁判所の発足直後がふさわしかろう」

嘉子はのちに「裁判官採用を拒否されて不満に思う気持ちがなかったとはいえない」としながらも、このときの面接結果に感謝すらしたのは、坂野からこんなことも言われたからだった。

「弁護士の仕事と裁判官の仕事は違うから、しばらくの間、司法省の民事部で勉強しなさい」

嘉子は司法省民事部で手伝いをすることになり、その後は、最高裁判所事務局民事部や家庭局で、民事訴訟および家庭裁判所関係の法律問題、そして司法行政に関する事務に携わることができた。

何よりも大きかったのは、法曹界の先輩と交友できたことだ。「裁判官とはいかなる仕事なのか」「裁判は何のために行うのか」という根本的なところを考えるよいきっかけになったようだ。

下積み時代を送ることができた意義

司法科試験に合格したその日から「女性初の弁護士誕生」と騒がれた嘉子にとっては、このときにいったんリセットし、1人の裁判官志望者として地に足がついた下積み時代を送ることができた意義は、大きかったことだろう。

嘉子が東京地方裁判所民事部の判事補となったのは、昭和24(1949)年8月のこと。裁判官を志してから2年の月日が経過していた。

(つづく)

【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 ‎『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)

(真山 知幸 : 著述家)

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