「60年間」株式市場と付き合って得た"現実と事実"

株式投資をする女性

手軽に株式投資を始められる時代になったものの、「個別株は難しい」と二の足を踏む人も多いようです(写真:Graphs / PIXTA)
京都大学名誉教授で、同大学成長戦略本部・証券投資研究教育部門客員教授の川北英隆氏の新著『京都大学人気講義の教授が教える 個別株の教科書』より一部を抜粋・再編集し、株式投資の本質論について3回にわたって掲載しています。2回目の今回は、前回に引き続き「個別株」投資の未経験者・初心者に対して筆者が伝えたいことをお届けします。

自然と株式について学んだ幼少時代

筆者は1950年、奈良県で生まれた。「株式」というものを知り、さらにそれに値段がついていると教えられたのはいつごろだったのか。多分、小学校3年生ごろだったと思う。

父親が株式を保有していて、その関係の郵便物(配当をはじめとする企業決算関係の書類)が届くので、「これは何?」と質問することで、自然と株式を学んだようだ。

よく遊んだ友人に資産家の子息がいて、彼の家で夕方近くまでいると、夕刊が配達される。と、友人は株価欄を広げ、彼の父親が保有する株式の株価を眺めていた。

当時の奈良県人にとって、近畿日本鉄道(今の近鉄グループホールディングス)の株主となり、鉄道の無料パスをもらうのがステータスだった。無料パスをもらうには、かなりの株数が必要だった。友人の家はその無料パスをもらっていた。

調べると(今まで知人の財産を計算するなんてしなかったので)、1961年年初の近鉄は1株200円くらいだった。8600株以上保有していると無料パスがもらえたとのことだから、計算すると172万円以上の資産価値になる。配当は1株6円だったので、年間5万1600円以上を受け取っていたことになる。

当時の庶民にとって憧れに近かったテレビ(白黒、14インチ)が6万円程度だったそうだから、1年間の配当でほぼそれが買える(大卒男子の初任給が1万5000円程度)。やはり友人の家は、当時感じていたとおりの資産家だったわけだ。

説明しておくと、当時の鉄道は成長産業だった。今は人口減少の時代、通勤・通学客相手の鉄道事業は斜陽に近い。そのため鉄道会社は経営の多角化を図っている。

筆者と株式投資の歩み

株式市場と筆者の歴史を簡単な表にまとめた(出所:『京都大学人気講義の教授が教える 個別株の教科書』)

京都大学経済学部の1年生のときだったか、貯めていた小遣いで株式を買い、すぐに1万円ほど儲けて登山靴を買った。しかし、株式を売り買いして儲けるのは神経をすり減らすだけ、趣味に合わないと悟った。

日本生命に入社し学んだこと

大学を卒業して、一応社会人になる資格ができた。経済学を研究する気は毛頭なかったので、企業に就職することにした。

どの企業に入るのか。大学時代の友人のアドバイスもあり、日本生命保険にした。

理由は単純で、当時の株式投資のバイブル的存在だった東洋経済新報社の「会社四季報」をパラパラめくると、いろんな会社の大株主として日本生命の名前が登場したからであり、その株式運用の担当者になりたいと思ったからである。

日本生命に入ったあと、株式売買の担当部門に配属されることはなかった。今から考えると、それがラッキーだったのかもしれない。

金融の流れや経済全体の動きを観察できる部門に配属され、上場企業のアナリストを経験し、株価を計測するモデルなどを作り、最終的には日本生命全体のポートフォリオ(株式や債券を含め、どの資産をどの程度の割合で保有するのか)を企画する部門、財務企画部に配属された。

この日本生命での仕事において、長期に株式を保有することの長所と短所を知った。企業業績と株価との関係も理解できたと思う。株式の長期保有は望ましいものの、企業を選ぶ必要があることも学んだ。

結局のところ、株価は経営者の才覚に大きく左右される。会社での29年間の経験において、株式市場は短期的には何回も大きく下落した。その中、優れた経営者がいる企業は、その経営者の指揮の下、株価下落をいち早くかつ悠然と乗り切った。

「株式は危険」広がった風潮を憂う

会社を辞めて大学に転じ、証券市場や証券投資の分析に携わった。純粋の経済学の分野から評価すると、とくに日本においては「証券はあやしげな世界」だった。

最近になり、「資産運用立国」などのキャッチフレーズもあって、証券の世界にもようやく光が当たってきたようだが。

小学生から中学生にかけてのころ、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」と言われたのを覚えている。このキャッチフレーズはその後、何回も言い換えを繰り返し、今の「資産運用立国」に至っている。

しかしその中身はというと、現時点においても、「株式で資産を築く」最初の一歩を踏み出した程度にすぎない。むしろ筆者が株式と付き合ってきた60年の間に、小学生のころの知人宅のような「資産家は株式を保有する」という常識が崩れ去った。

もっと言えば、株式は危険だという、エセに近い情報が広まってしまった。どうしてなのか。

それは証券業界の行儀が良くなかったからであり、日本では誰も真面目に、分析に基づいて株式のことを考えようとしなかったからでもある。
「株式」というと、「でも難しそうだ」とか、「株式で財産を失ったと父母や祖父母から聞いたが」との声が周囲にあるだろう。

前者の声については、「株式とは何かと考え始めたらきりがないし、本当のことを知っている者はプロでも数少ない」と簡単に答えておきたい。

後者の株式の危険性については、「それは証券会社や関係業者の言いなりになったからにすぎない」とまずは答えておきたい。父母や祖父母の声はともかくとして、過去も現在も未来も、株式で一攫千金を目指せば、その瞬間、財産をなくす危険に直面する。

だが、株式とは本質的に怖いものではない。

筆者の60年間にわたる株式市場との付き合いから得たさまざまな現実と事実を単純化して書くのなら、次のとおりである。

まず、「株式を買うことは子どもでもできる」単純なことである。もちろん契約に関する年齢制限があるため、原則として子ども(18歳未満)が証券会社に株式口座を開けないだろうが、それは契約に関して正しい判断ができないとの理由に基づくだけである。

次に、「株式で損をすることは当然ありうるが、欲さえかかなければ、大ケガとは無縁、何も怖くない」と筆者は信じて疑わない。ここでいう「欲」とは何なのか。

それは「安く買って、高く売ろう」とか、「借金して、たとえば信用取引で株式の売買をしよう」などといったことであり、要するに明日にでも大金持ちになろうとすることだ。

本来の株式の楽しさを伝えたい

1950年以降の日米の株価推移を以下の図にした。日本もアメリカも70年あまりを通じて株価は上昇してきている。

日本の場合、1980年代後半の異常な株高、すなわちバブルと、90年代のバブル崩壊はあったものの、長期で見れば株価は上昇の歴史である。

なお、図の目盛りは常用対数を使ったから、株価推移を示す線の傾きが株価上昇率もしくは下落率を表している。株価推移については現地通貨ベース(日本は円、アメリカはドル)と円ベースの両方を示した。後者は円高、円安の影響を受ける。

日米の株価の歴史(1950年以降)

日米の株価の歴史(1950年以降)

日米の株価推移(1950年以降、円ベース)

日米の株価推移(1950年以降、円ベース)

極論に近いが、1980年代後半に生じた日本のバブルにより、超が付くくらい異常に高くなった株価(正確には日経平均株価)でさえ、34年2カ月を要したものの、2024年2月には元に戻った。つまり、株価はゼロにはならない。

宝くじや競馬の馬券と株式が大きく異なるのは、この「ゼロにならない、紙くずにならない」点にある。言い換えるなら、株式とは、そもそもは博打とは別世界にある。

京都大学人気講義の教授が教える 個別株の教科書

株式を博打にしたければ、いくらでも方法はあるのだが、私は「株式を博打にしないことが重要」と忠告しつつ、本来の株式の楽しさを伝えたい。

繰り返しておく。本来の株式は博打の対象でないのだから、変な潰れそうな企業の株式を、それも異常に高い値段で買わないかぎり、株価が下落したところで、いずれ元に戻る。

株価の水準を心配するに越したことはないが、過剰に心配するのは時間の無駄であり、みすみすチャンスを逃しかねない。

少額で十分なので、まずスタートすることにしよう。

(川北 英隆 : 京都大学名誉教授、京都大学成長戦略本部・証券投資研究教育部門 客員教授)

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