宮中の「ぞっとするいじめ」裏にある"女房の対立"

光る君へ 大河ドラマ 藤原道長 紫式部

京都御所(写真: hanadekapapa / PIXTA)
今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は宮中で起きた陰湿ないじめについて解説します。
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舞姫たちの姿に驚く紫式部

中宮彰子に仕えた紫式部は、寛弘5年(1008年)11月18日朝、内裏に帰られた彰子が、父・藤原道長から贈られた贈り物をゆっくりとご覧になられたと、日記に記しています。道長からの贈り物は、一対の手箱、古今集・後撰集・拾遺集といった歌集でした。

それから2日後の11月20日には、内裏に五節の舞(宮廷で女性が演じる舞。大嘗会や新嘗会の後で行われる豊明節会で披露した)で舞う舞姫が参入しました。

今年は五節の舞までに時間の余裕があり、舞姫たちは張り合っているという噂があると、紫式部は日記に記しています。

中宮御座所の向かいにある東の立蔀(たてじとみ:ついたてのようなもの)にびっしりと並べられた灯火のなかを、舞姫たちは歩いてやって来ました。

昼よりも明るく、顔姿がしっかりと見える状態で歩く舞姫たちに、紫式部は(なんと平然としたことか)と驚いています。

紫式部の日記を読んでいると、明るい場所などで他人にはっきり顔や姿を見られることは恥ずかしい、との考え方があるように感じます。これは紫式部が内向的な性格だったから、というのとはまた異なる理由があったように思います。

舞姫を見て(なんと平然としたことか)と感じた紫式部ですが、(他人事ではない)とも感じていました。

自分(紫式部)はただ、殿上人と対面する位置にいて、紙燭(小型の照明具)を向けられていないだけ。舞姫の周りには幔幕(まんまく:横に長い幕)が張られているけれども、皆、舞姫だけを見ているのではなく、全体を見ているかもしれない。

いろいろと想像すると、紫式部は「胸が詰まってきた」ようです。

中宮の御座所には、帝(一条天皇)の姿も見えました。北の遣り戸(引き戸)には殿(藤原道長)もこっそりとやって来ています。

そうしたこともあり、紫式部の心はさらに緊張したのでしょう。「好き勝手できず、気詰まりだ」と書いています。

心配しながらも、童女をじっくり観察

五節の行事はまだまだ続きます。11月22日には五節の行事の1つ「童女御覧」と呼ばれる行事が行われました。これは五節の舞姫の付き添いの童女と下仕えの女房を清涼殿に召して、天皇が御覧になるというもの。

紫式部はこの童女御覧についても日記に記し、天皇と対面する童女の思いに寄り添っています。「童女たちの気持ちは平静ではないだろう。どんなにドキドキしているであろう」と。

光る君へ 大河ドラマ 紫式部 

京都御所(写真:t.sakai / PIXTA)

童女たちが並んで入ってくるのを見た紫式部は、もうそれだけで胸がいっぱいになり、見ているのがつらくなってしまったようでした。

そして舞姫の時と同じような気持ち(このように明るい昼に、顔を隠す扇を持たず、多くの見物人の前にさらされる童女たち。どれほど怖気づいているだろう)を抱くのです。紫式部にとって人から見られることは、恐怖にも似た羞恥心があるようですね。

一方で童女の心中を思いやりながらも、「藤宰相の童女は、小憎らしいくらいすてきだ」とか「丹波守の童女は、顔かたちもそう整っていない」「宰相中将の童女は背が高くて髪がきれいだ」と、紫式部はそれぞれの童女をじっくり観察していました。

人に見られる立場の童女に無性に心が痛むと書きつつも、紫式部も童女を観察して、ここが良い・悪いと記しています。

しかし紫式部自身もその矛盾に気が付いたようで、「あれこれ批評しているけれど、私たちが『あの子たちのように人前に出よ』と言われたら、緊張して足が地につかないだろう」と感じていました。

そして自身の女房生活を振り返り「我ながら、こうも人前に出ることになろうとは、かつては思っていただろうか」としみじみします。

紫式部の想像はさらに膨らみます。「びっくりするくらい変わってしまうのが、人の心だろう。きっとこれから私も女房生活に染まりに染まり、人々に顔をさらしても平気になるに違いない」と「妄想」を展開しています。

こうして童女についていろいろと考えすぎてしまい、せっかくの華麗な儀式も紫式部の目にはしっかりと入らなかったようですね。

左京の君に対する「いじめ」が起きる

さて、そんななかで「左京の君事件」が起こります。事件と書くと仰々しく聞こえますが、政変といった類のものではありません。

左京の君は、弘徽殿女御(内大臣・藤原公季の娘)の女房。彼女に対し、中宮彰子の女房たちが匿名で嘲笑の意味を込めて、和歌や贈り物をしたという事件です。

左京の君はすでに宮仕えを辞めていたのですが、今回は藤原実成(弘徽殿女御の弟)が奉った舞姫の介添え役として内裏に参上していました。

それにしても、なぜ中宮彰子の女房たちは、弘徽殿女御に仕えていた左京の君を嘲弄したのでしょうか。

元女房が舞姫の介添えになることはみじめなことであると考えられ、嘲笑の対象となってしまった。介添え役として積極的に采配を振るった左京の君は、奥ゆかしさをよしとする中宮彰子の女房らに嫌われた。こうしたさまざまな説があります。

左京の君が舞姫の介添えとして来ていることを聞いた中宮の女房たちは「面白いじゃないの。知らない顔はできないわね。昔、奥ゆかしそうな顔して勤めていた内裏に、理髪役(介添え役)として戻ってくるなんて。うまく隠れているつもりのようだけど、ご挨拶してやりましょう」と言い、中宮の御前にあるたくさんの扇のなかから蓬莱(古代中国における想像上の神山。不老不死の仙境)の絵が描かれているものを選び、童女用のくしを添えて送るのです。

年老いても若々しく介添えする左京の君には、不老不死の仙人が住む蓬莱山の扇こそお似合いという皮肉を込めて送ったのでしょうか。

また「女盛りを過ぎた方だし、くしの反り方が足りないんじゃない」と、不格好なまでに反り返ったくしを選び、「今は日陰の身のあなたを哀れと思い拝見しました」との文章も添えられました。

しかも「弘徽殿女御からの贈り物です」と使者に言づけて、左京の君に送ったのです。

女房同士が対立関係にあった?

左京の君の反応はわかりませんが、平安時代における一種の陰湿な嫌がらせです。

中宮や女御に仕える女房たちは、それぞれ対立関係にあり、おそらく仲はよくなかったのでしょう。そうしたことが、今回の事件につながったように思います。

さて、五節の儀式が終わった後のことも紫式部は記していて、儀式が終わると、内裏は急に寂しい雰囲気となったようです。祭りの後といった感じでしょうか。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)

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