「中宮彰子が皇子出産」喜ぶ道長と周囲の"温度差"

光る君へ 大河ドラマ 紫式部 藤原道長

京都御所(写真: denkei / PIXTA)
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第34回は中宮・彰子の出産時のエピソードを紹介する。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

僧侶や修験者がかき集められた

「人事を尽くして天命を待つ」とは、よく言ったものである。やるべきことをすべてやったならば、あとは運命に任せるほかはない。平安時代の貴族社会で、最高権力者となった藤原道長も、例外ではなかった。

道長は、自分の娘を3人も天皇の后にするという前代未聞のことを成し遂げている。

一条天皇のもとには長女の彰子を、三条天皇のもとには次女の妍子を、さらに後一条天皇には三女の威子を后として送り込み、「一家立三后(いっかりつさんごう)」と驚かれた。

自分が亡くなったあとも末永く一族が繁栄するために、あらゆる手を打った道長だったが、どれだけ娘を天皇に嫁がせたとしても、子を成さなければ、影響力を持つことはできない。こればかりは授かりものであり、道長としても祈るしかなかったことだろう。 実際に道長は寛弘4(1007)年8月に金峯山詣(きんぶせんもうで)を行い、子守三所に詣でている。

それだけに、一条天皇に嫁がせた彰子が懐妊したときには大騒ぎとなった。無事に出産できるようにと、最大限のバックアップが行われている。

紫式部は日記に次のように書く。

「月ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をば、さらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者といふかぎりは残るなく参り集ひ、三世の仏もいかに翔りたまふらむと思ひやらる」

(この数カ月ずっと控えている邸内にいる大勢の僧侶たちは、言うまでもないが、山々や寺々を尋ね回って探し出した、修験者という修験者は1人残らず参集している。三世の仏もどれだけ飛び回って、邪霊退治を行っていることだろうかと、イメージが膨らむというものだ)

結局、その日は何事もなく暮れて、次の朝がやってきた。いつ生まれるのかわからないなかで、これだけの体制を備えておくのは、さぞ大変だったことだろう。

式部が改めて彰子を尊敬したワケ

翌日もまた賑やかだったらしい。御帳台の東側では、内裏から来た女房たちが集った。そして反対側の西側では、「御もののけ移りたる人びと」、つまり、中宮のもののけが移った憑坐(よりまし)たちが屏風に囲い込まれていたという。憑坐とは、修験者や巫子が神を降ろすときに、神霊を乗り移らせる童子や人形のことだ。

その囲みの入口には几帳を立てて、「験者あづかりあづかりののしりゐたり」とあるように、修験者たちが憑坐1人ひとりを担当して祈祷の声を上げていたという。式部は次ように描写している。

「頼みみ恨みみ、声みな涸れわたりにたる、いといみじう聞こゆ」

祈願したりまた恨んだりしながら、皆が一様に声を枯らしており、それがたいそう尊く聞こえる――。

これほど物々しい雰囲気では、妊婦がかえって不安になりそうだが、出産を控えた時期の彰子はどんな様子だったのか。式部はこう書いている。

「悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさま」

(出産を控えて身体もつらいに違いないのに、平静をよそおって隠していらっしゃる)

いかにも控えめな彰子らしい。そんな姿をみて、式部はこんな思いに駆られたのだという。

「憂き世の慰めには、かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれ」

(つらいことが多いこの世で心を慰めるには、探し出してでも、このようなお方にこそお仕えすべきだ)

式部が中宮の彰子に仕えた経緯は、よくわかっていない。だが、どんな巡り合わせにしても、式部は運命の出会いに感謝したことだろう。

寛弘5(1008)年9月11日、彰子は無事に男の子を出産した。のちに後一条天皇となる敦成親王である。彰子の出産に、国内は一気にお祝いムードに沸いた。

なにしろ、式部が「平らかにおはしますうれしさの類もなきに」と書くように、安産であるだけでも喜ばしいのに「男にさへおはしましける慶び、いかがはなのめならむ」、つまり男児が誕生したのだから、その喜びは並一通りのものであるはずがなかった。

とにかくお礼を言わなければと、道長も妻の倫子も、あちこちの部屋に出入りした。

この数カ月にわたって、祈祷をしたりお経を読んだりとハードワークをこなした僧侶や医師、そして陰陽師たちに、お布施や贈り物などを与えるのにバタバタしている。思いつく限りの準備をしただけに、関係者も実に多かった。嬉しい悲鳴とは、まさにこのことだろう。

よくぞ無事に生まれてきてくれた……そんな喜びは、子の成長を目の当たりにすると、なおいっそう強くなってくる。11月には「五十日(いか)のお祝い」が執り行われた。道長は可愛い孫の敦成親王に、すりつぶした餅を食べさせている。

はしゃぎまくる道長に呆れる妻

よほど上機嫌だったらしい。『紫式部日記』によると、道長は酔っぱらいながら、会心の出来の和歌を詠んでは、こんな軽口を叩いたという。

光る君へ 大河ドラマ 紫式部 藤原道長

紫式部の邸宅跡とされる京都 廬山寺(写真:マノリ / PIXTA)

「私は中宮の父にふさわしく、私の娘としても中宮は恥ずかしくない。妻もまた幸運に微笑んでいるようだ。いい夫を持ったなあ、と思っていることだろう」

まったく自分で何を言っているんだか、と周囲もほほえましく思ったことだろう。だが、身内からすれば、恥ずかしくてたまらなかったらしい。妻の倫子は自画自賛する夫に呆れて、部屋から退出。道長も妻の怒りを察したのか、慌ててその後を追いかけたという。一気に酔いは醒めたのではないだろうか。

また、これは年月が経ってからの話だが、7歳になった敦成親王が三条天皇と初めて会ったときのことである。三条天皇の前で、孫がマナー作法を完璧にこなす姿をみて、道長は感動。涙まで流したという。孫バカまっしぐらだ。

待ち望んだ彰子の出産が、道長にもたらした喜びがいかに大きかったかがよく伝わってくる。

「五十日のお祝い」に話を戻すと、夫のはしゃぐ姿が痛々しいのはわかるが、何も倫子は退出までしなくてもよいのではないだろうか。

そんな気もしてしまうが、当時の状況をよく考えると、倫子の行動も理解できる。

どういうことか。それは、敦成親王の誕生によって、明るい未来が閉ざされた人もいるということだ。

実は彰子の出産に喜べなかった面々

一条天皇のもとに、娘の元子を入内させた藤原顕光もしかり。また、娘の義子を入内させた藤原公季らもしかりだ。もし、彰子が子に恵まれなければ、彼らは天皇の親戚として権勢を振るうチャンスがあった。

しかし、最高権力者である道長の娘が、一条天皇の子を生んだとなれば、後継者はほぼ決まったも同然であろう。

伊周や隆家にいたっては、妹の定子が一条天皇との間に第1皇子の敦康親王を生み、その後、さらに二人の子を成して亡くなっている。彰子が子どもさえ生まなければ……という思いはどうしてもよぎるだろう。

敦成親王が生まれてもなお、一条天皇は定子の忘れ形見である、第1皇子の敦康親王のほうを後継者としたがったが、道長がしっかりと手を打っている。藤原行成を通じて、天皇を説得。何の後ろ盾もない敦康親王に継がせても、本人はかえって不幸になりかねない……と納得させている。

後継者を敦成か敦康のいずれにするかについては、意外にも、娘の彰子が道長に反発した。一条天皇の望み通りに、自分の息子ではなく、敦康親王に継がせるべきだと、彰子は考えたのである。彰子は養母として、敦康親王の立場に同情したようだ。

だが、願いはかなわず、父に押し切られてしまうと、行成が『権記』に「后宮は丞相を怨み奉られた」と書いているように、彰子は父・道長のことを恨んだのだという。

そんなふうに、敦康親王をはじめとして、敦成親王の誕生によって、運命が変わった人のことを思えば、酔っぱらって無邪気に自分の一族の栄華を誇るのは、あまりにデリカシーがない。妻の倫子は、いたたまれなくなって、その場を立ち去ったのであろう。

そうして自分の妻や娘に失望されながらも、道長は権力掌握にひた走ることになるのだった。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)

ジャンルで探す