「中宮彰子が皇子出産」喜ぶ道長と周囲の"温度差"
僧侶や修験者がかき集められた
「人事を尽くして天命を待つ」とは、よく言ったものである。やるべきことをすべてやったならば、あとは運命に任せるほかはない。平安時代の貴族社会で、最高権力者となった藤原道長も、例外ではなかった。
道長は、自分の娘を3人も天皇の后にするという前代未聞のことを成し遂げている。
一条天皇のもとには長女の彰子を、三条天皇のもとには次女の妍子を、さらに後一条天皇には三女の威子を后として送り込み、「一家立三后(いっかりつさんごう)」と驚かれた。
自分が亡くなったあとも末永く一族が繁栄するために、あらゆる手を打った道長だったが、どれだけ娘を天皇に嫁がせたとしても、子を成さなければ、影響力を持つことはできない。こればかりは授かりものであり、道長としても祈るしかなかったことだろう。 実際に道長は寛弘4(1007)年8月に金峯山詣(きんぶせんもうで)を行い、子守三所に詣でている。
それだけに、一条天皇に嫁がせた彰子が懐妊したときには大騒ぎとなった。無事に出産できるようにと、最大限のバックアップが行われている。
紫式部は日記に次のように書く。
「月ごろ、そこらさぶらひつる殿のうちの僧をば、さらにもいはず、山々寺々を尋ねて、験者といふかぎりは残るなく参り集ひ、三世の仏もいかに翔りたまふらむと思ひやらる」
(この数カ月ずっと控えている邸内にいる大勢の僧侶たちは、言うまでもないが、山々や寺々を尋ね回って探し出した、修験者という修験者は1人残らず参集している。三世の仏もどれだけ飛び回って、邪霊退治を行っていることだろうかと、イメージが膨らむというものだ)
結局、その日は何事もなく暮れて、次の朝がやってきた。いつ生まれるのかわからないなかで、これだけの体制を備えておくのは、さぞ大変だったことだろう。
式部が改めて彰子を尊敬したワケ
翌日もまた賑やかだったらしい。御帳台の東側では、内裏から来た女房たちが集った。そして反対側の西側では、「御もののけ移りたる人びと」、つまり、中宮のもののけが移った憑坐(よりまし)たちが屏風に囲い込まれていたという。憑坐とは、修験者や巫子が神を降ろすときに、神霊を乗り移らせる童子や人形のことだ。
その囲みの入口には几帳を立てて、「験者あづかりあづかりののしりゐたり」とあるように、修験者たちが憑坐1人ひとりを担当して祈祷の声を上げていたという。式部は次ように描写している。
「頼みみ恨みみ、声みな涸れわたりにたる、いといみじう聞こゆ」
祈願したりまた恨んだりしながら、皆が一様に声を枯らしており、それがたいそう尊く聞こえる――。
これほど物々しい雰囲気では、妊婦がかえって不安になりそうだが、出産を控えた時期の彰子はどんな様子だったのか。式部はこう書いている。
「悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさま」
(出産を控えて身体もつらいに違いないのに、平静をよそおって隠していらっしゃる)
いかにも控えめな彰子らしい。そんな姿をみて、式部はこんな思いに駆られたのだという。
「憂き世の慰めには、かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれ」
(つらいことが多いこの世で心を慰めるには、探し出してでも、このようなお方にこそお仕えすべきだ)
式部が中宮の彰子に仕えた経緯は、よくわかっていない。だが、どんな巡り合わせにしても、式部は運命の出会いに感謝したことだろう。
寛弘5(1008)年9月11日、彰子は無事に男の子を出産した。のちに後一条天皇となる敦成親王である。彰子の出産に、国内は一気にお祝いムードに沸いた。
なにしろ、式部が「平らかにおはしますうれしさの類もなきに」と書くように、安産であるだけでも喜ばしいのに「男にさへおはしましける慶び、いかがはなのめならむ」、つまり男児が誕生したのだから、その喜びは並一通りのものであるはずがなかった。
とにかくお礼を言わなければと、道長も妻の倫子も、あちこちの部屋に出入りした。
この数カ月にわたって、祈祷をしたりお経を読んだりとハードワークをこなした僧侶や医師、そして陰陽師たちに、お布施や贈り物などを与えるのにバタバタしている。思いつく限りの準備をしただけに、関係者も実に多かった。嬉しい悲鳴とは、まさにこのことだろう。
よくぞ無事に生まれてきてくれた……そんな喜びは、子の成長を目の当たりにすると、なおいっそう強くなってくる。11月には「五十日(いか)のお祝い」が執り行われた。道長は可愛い孫の敦成親王に、すりつぶした餅を食べさせている。
はしゃぎまくる道長に呆れる妻
よほど上機嫌だったらしい。『紫式部日記』によると、道長は酔っぱらいながら、会心の出来の和歌を詠んでは、こんな軽口を叩いたという。
「私は中宮の父にふさわしく、私の娘としても中宮は恥ずかしくない。妻もまた幸運に微笑んでいるようだ。いい夫を持ったなあ、と思っていることだろう」
まったく自分で何を言っているんだか、と周囲もほほえましく思ったことだろう。だが、身内からすれば、恥ずかしくてたまらなかったらしい。妻の倫子は自画自賛する夫に呆れて、部屋から退出。道長も妻の怒りを察したのか、慌ててその後を追いかけたという。一気に酔いは醒めたのではないだろうか。
また、これは年月が経ってからの話だが、7歳になった敦成親王が三条天皇と初めて会ったときのことである。三条天皇の前で、孫がマナー作法を完璧にこなす姿をみて、道長は感動。涙まで流したという。孫バカまっしぐらだ。
待ち望んだ彰子の出産が、道長にもたらした喜びがいかに大きかったかがよく伝わってくる。
「五十日のお祝い」に話を戻すと、夫のはしゃぐ姿が痛々しいのはわかるが、何も倫子は退出までしなくてもよいのではないだろうか。
そんな気もしてしまうが、当時の状況をよく考えると、倫子の行動も理解できる。
どういうことか。それは、敦成親王の誕生によって、明るい未来が閉ざされた人もいるということだ。
実は彰子の出産に喜べなかった面々
一条天皇のもとに、娘の元子を入内させた藤原顕光もしかり。また、娘の義子を入内させた藤原公季らもしかりだ。もし、彰子が子に恵まれなければ、彼らは天皇の親戚として権勢を振るうチャンスがあった。
しかし、最高権力者である道長の娘が、一条天皇の子を生んだとなれば、後継者はほぼ決まったも同然であろう。
伊周や隆家にいたっては、妹の定子が一条天皇との間に第1皇子の敦康親王を生み、その後、さらに二人の子を成して亡くなっている。彰子が子どもさえ生まなければ……という思いはどうしてもよぎるだろう。
敦成親王が生まれてもなお、一条天皇は定子の忘れ形見である、第1皇子の敦康親王のほうを後継者としたがったが、道長がしっかりと手を打っている。藤原行成を通じて、天皇を説得。何の後ろ盾もない敦康親王に継がせても、本人はかえって不幸になりかねない……と納得させている。
後継者を敦成か敦康のいずれにするかについては、意外にも、娘の彰子が道長に反発した。一条天皇の望み通りに、自分の息子ではなく、敦康親王に継がせるべきだと、彰子は考えたのである。彰子は養母として、敦康親王の立場に同情したようだ。
だが、願いはかなわず、父に押し切られてしまうと、行成が『権記』に「后宮は丞相を怨み奉られた」と書いているように、彰子は父・道長のことを恨んだのだという。
そんなふうに、敦康親王をはじめとして、敦成親王の誕生によって、運命が変わった人のことを思えば、酔っぱらって無邪気に自分の一族の栄華を誇るのは、あまりにデリカシーがない。妻の倫子は、いたたまれなくなって、その場を立ち去ったのであろう。
そうして自分の妻や娘に失望されながらも、道長は権力掌握にひた走ることになるのだった。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
(真山 知幸 : 著述家)
09/01 11:00
東洋経済オンライン