ズケズケ言ってくる友達が抱える「心の傷」の正体

困る女性

人は自分の意地の悪さの言い訳として、「ウソ偽りのなさ」を使います(写真:buritora/PIXTA)
「友達の前で自分らしく正直にいる」ことが、本当の友達の条件のように言われることがあります。しかし、何事もずけずけと正直に言ってくる友人は、本当の友人なのでしょうか?
『FRIENDSHIP 友情のためにすることは体にも心にもいい』の著者マリサ・フランコさんは、「自分の意地の悪さを言い訳するときに、『自分はウソ偽りがないから』と言う人がいる」と言います。
そもそも、友達を傷つけるような人は「本当にその人にとって正直な状態」なのでしょうか。本文から、抜粋してご紹介します。

「正直」が意地の悪さの言い訳になっていないか

心理学者のスーザン・ハーターは「ウソ偽りのなさ」を、「考え、感情、ニーズ、欲求、好み、信念、個人的経験を自分のものだと認めること」そして「本当の自分と合致した行動を取り、内なる考えや感情と一致した方法で自分を表現すること」だと定義しています。

しかし「本当の自分」とは何でしょうか? 「本当の自分」が何であるかを定義せずに、ウソ偽りのなさの中心を「本当の自分」だとしてしまうのは危険です。

それだと、「本当の自分」を反映しているからといって、破壊的な行為を簡単に正当化できてしまいます。たとえば「率直な感想」だからと「その髪型、ヘンだよ」と言ってくるような友達や、あなたがプレゼンテーションを終えたあと、頼んでもいないのに「人前で話す練習した方がいいね」とアドバイスしてくるような友達の行為。

人は自分の意地の悪さの言い訳として、「ウソ偽りのなさ」を使います。それでは、ウソ偽りのなさをどう定義すればいいのでしょうか? 過去の研究を調べてみると、パターンが見えてきました。

たとえば、ウソ偽りのない自分に一番なれるのは、オープンで心を開いた人のそばにいるときで、自分を偽っているように感じるのは、人から非難されているときだという研究結果が出ています。

また、気分がいいとき―喜び、落ち着き、愛情を感じているときに、自分にはウソ偽りがないと感じ、その一方で不快なとき―不安、ストレス、落ち込みを感じているときに、自分を偽っているように感じます。

自分の心理的なニーズがすべて満たされたとき、そして自分が有能だと感じられるときや、帰属意識を感じられるとき、自己肯定感が高まっているときに、ウソ偽りのなさをもっとも強く感じます。

これらの研究では、ウソ偽りのなさとは何か、あるいは何でないかが明らかです。つまり、ウソ偽りのなさとは、傷ついたと感じたときについしてしまう反射的な行動ではないということです。また、人のことなど気にせずに、自分の考えや感情を思うままに向こう見ずに表現することでもありません。

責めたり、こき下ろしたり、攻撃したりといった行動は、ウソ偽りがないというより、感情がむき出しのままの行動であるといった方がいいでしょう。

そうではなく、本当のウソ偽りのなさとは、安心できる環境で花開くものだといえます。防御メカニズムに乗っ取られていないときに到達できる、落ち着いた状態なのです。

「落ち着いた」状態とはつまり、注意散漫になっていたり、マルチタスクをしていたり、たとえば「元気?」と聞かれて自動的に「元気だよ」と答えるなど、何も考えずに発言したりするときは、ウソ偽りない状態ではないということです。

防御メカニズムに乗っ取られていない状態ということは、安心感に触れ、ウソ偽りがない状態になるということです。たとえ脅威や批判、拒絶、無視などに直面しても、自分を防御する必要性を感じないときです。

不安や恐れを抱かず、世の中にどのような姿を見せるかを、反射によってではなく意図的に決断できる状態の自分です。

「本当の自分」とは、感情をむき出しにした状態ではない

この定義をもっと肉付けしてみましょう。私たちは、人間関係や自尊心を守るために、本当の感情から距離を取ってしまうことがよくあります。

愛着理論の父ジョン・ボウルビィはこれをこう表現します。「母親に伝えられないことは、自分自身にも伝えられない」私たちは、自分を見捨てた友達を恋しがる気持ちを認める代わりに、去って行ったことなど気にしない、と言います。

自分の方が成熟して友達とは合わなくなったと認める代わりに、何も問題ないと自分に言い聞かせます。

自然の感情を捻じ曲げ、それを正当化したり、考えないようにしたりします。しかしながらウソ偽りのなさとは、友達に見捨てられて拒絶されたと感じるのを自分に許すこと、友達にからかわれて傷ついたと感じるのを自分に許すこと、幼なじみとはもう会わないのだと認めるのを自分に許すことです。

つまり、自分の心に正直でいる状態。自分を守ろうとして構築してきた防御メカニズムの下にある、本来の自己の姿です(※心理学者の中には、ウソ偽りのなさについての私の定義に異論を唱え、ウソ偽りのなさなど本当は存在しないと主張する人もいます。詳細は、ロイ・F・バウマイスターの論文「Stalking the True Self Through the Jungles of Authenticity: Problems,Contradictions, Inconsistencies, Disturbing Findings—and a Possible Way Forward 」(「ウソ偽りのなさというジャングルで本来の自己に忍び寄る」))

そしてこの防御をやめたとき、自分が人とのつながりに価値をおく、愛すべき存在であるのだと気づきます。ということは、前述した、ウソ偽りのない自分―つまり「本来の自己」の定義は、私たちの日常的な姿ではないということです。

原始的な防御が発動していない、ウソ偽りがないときの私たちは、恐れを抱いた自分ではなく、もっとも高次の自分にアクセスできます。

「本来の自己」になるには

研究者のニナ・ストローミンジャー、ジョシュア・ノーブ、ジョージ・ニューマンは、「本来の自己―自我とは異なる心理学的概念」という研究を行い、人は「本来の自己」をどう受けとめているかを知るべく、過去に行われた調査を評価しました。そこで、人は自分や他人の「本来の自己」を道徳的でいいものだと考えることがわかりました。

たとえば、ある人の性格にポジティブな面が見えるようになったら、その人の本来の気質が表に出てきたのだと受けとめます。この研究の著者らによると、「人は、他人を悪人だと思いたがるものの、根っからの悪人だとは思いたがらない」ものなのです。

本来の自己に関するこうした好意的な感覚は、アメリカ、ロシア、日本、シンガポール、コロンビアなど、さまざまな文化に存在します。本来の自己と高次の自己の融合は、映画でもよく描かれています。

映画『クリスマス・キャロル』のエンディングでは、お金持ちのスクルージがケチな考えを改め、ティムの治療費をティムの父親に払うことに同意します。このシーンを見て私たちは、慈悲深いこの男性こそが、実は本来のスクルージの姿だったのだ、と心が温まります。

こうした悪役は、自分の傷を直視さえすれば、彼らの奥にある善良さを解き放つことができるのだ、と私たちに感じさせます。もしかしたら、私たちが思う以上に、物語の悪役と私たちは似ているのかもしれません。もしかしたら私たちも、愛されて受け入れられたと感じられれば、まるで落ち葉のように仮面が落ち、「本来の自己」になれるのではないでしょうか。

(マリサ・G・フランコ : 心理学者、フレンドシップ専門家)
(松丸 さとみ : 翻訳者・ライター)

ジャンルで探す